終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年02月25日(土)

『オペラハット』:

 教会の長椅子は冷たく、固い。マルチェロとククールは寄り添って座り、身じろぎもしない。捧げられた灯火は揺れもせず、飾り気のない簡素な窓はゆっくりと闇に沈んだ。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。マルチェロは一度も目を開けなかった。左側に重なる温もり以外、なにひとつ感じたくはなかったからだ。左側の、そして重ねた手の。
 子供のするような触れ合うだけのキスをして、それきり何も言葉を交わさなかった。ただそうして座っていただけだ。そのあいだマルチェロは考えていた。パリの大聖堂の前で考えたのと同じことだ。こうしているあいだに、永遠が過ぎればいい。人生の全ての時間が使い果たされてしまえばいいと。
 だがその願いばかり、叶ったことがない。重いくぐもった靴音がとおく、やがて近づき、すぐ先の壁の気づかなかった扉が開いた。馬蹄形の扉の向こうからは明るさが長く伸び、細長い身廊を横切った。傍らではかすかに身じろぎしてククールが顔を上げ、いっそう身を寄せてくる。
 灯りとともに歩み出てきたのは太った小柄な男だ。胸には大きな十字架を下げている。マルチェロはふと眉を寄せる。
「誰か、おるのかね?」
 高く掲げられた古いランプの灯りに、マルチェロは黙って立ち上がった。そこにいるのが誰かわかったからだ。
「ムシュー…?」
 けげんなような視線が、中途でこわばった。それなら相手もそれと知ったのだ。マルチェロは相手をじっと見た。それが誰だか良く知っていた。およそこんな場所で会うにはもっとも似つかわしくない男だ。

 暗黒街の顔役の一人だったニノがパリから姿を消したのは、5年前の夏のことだ。死体は上がらず殺したというものもなく、また組織の金庫番が神に誓って言ったところでは、法外な金が一緒に消えたわけでもない。
 それなら、殺されたにしろ、自らの意思で立ち去ったにしろ、誰一人その行方を尋ねるものもあるはずがなかった。なにせ、そこに生じた利権の空白を争奪するのに、残された誰もが忙しかったからだ。
 そして多少のごたごたの後で、半年とたたないうちにマルチェロが組織を乗っ取り圧制と秩序を敷くと、それですべての者がニノを忘れた。暗黒街の情愛などその程度のものだ。ただもしニノのことを覚えているものがあるとすれば、それはベネディクトで、彼はたまにマルチェロに向かって感心したように言った。
「あのデブ親父はどっかで生きてるさ。マルチェロ、あいつはいい時に身を引いたよ。時宜を心得てた。あんなふうに誰もができるもんじゃない」
 マルチェロはというと、その件に関しては興味も関心もなかった。チンピラがほかのチンピラと時に見分けがたいほどに似通っているように、顔役という種族もどれも似ているという程度にしか思っていなかったからだ。

 そう考えていたのだ、少なくともこの瞬間までは。僧服に身を包み、古びたランプを提げたニノを前にして、マルチェロは黙って立ち尽くした。
「マルチェロさんの、知り合い?」
 恐る恐るというように尋ねてきたククールに、マルチェロは浅く頷いた。するとニノも肩を落とし、灯りを下げて微笑する。それは記憶にあるよりも穏やかで、人間味を帯びている。その事実に奇妙な感慨を覚えて、マルチェロはククールを促して通路に出ると、ニノの方に歩み寄った。
「久しぶりじゃのう、マルチェロ。元気そうでなによりじゃ」
「あんたは少し、痩せたようだ。……ペール、また会うとは思わなかった」
「おまえにそう呼ばれるとはな」
 ニノが笑った。マルチェロは黙ってその顔を見た。五年の歳月はニノの上から少しばかり肉を減らし、かえって若返らせたようだ。かつては消えたことのない目の下の隈もうすれ、酷薄そうな笑みも唇の上からない。
「せっかくじゃ、司教館に寄ってゆけ。少し、話をしておいた方がいいかもしれんしのう。ああ、そっちは誰じゃ?」
 問われて、マルチェロはククールを見た。思案の間をおいて低く言う。
「……知り合いだ」
 左手からするりと逃げていく腕の感触にも、マルチェロは黙っていた。なにか問いたげにニノの視線が向けられても黙っていた。チューバがあったら吹いていただろう。大切なことが起きるときは、いつだって十分な思案と言葉が間に合ったことはないのだ。それが運命だとでもいうように。だからマルチェロは黙っていた。
「こっちじゃ」
 促されるままにマルチェロは歩き出した。左脇の下のホルスターの重さがふいに感じられ、そうしたものを持っていたということを思い出させた。

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“So you see, everybody does silly things to help them think. Well, I play the tuba.”
「皆、考え込んだら奇妙な行動をしますが、私の場合はチューバを吹くのです。」
ロングフェロー・ディーズ(ゲーリー・クーパー)『オペラハット』


ペールはフランス語で父親の意味。転じて、神父さん、ですな。この場合。




不調だ…が。まあいいや、書き続けることに意義がある(多分)


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