終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年02月24日(金)

ちょっと疲れたので閑話休題+解題してみよう。

閑話休題:

 トリノ五輪最初のメダルは、女子フィギュア・荒川選手の金だった。これ自体は素晴らしいことだし、この種目は日本人初といわれればなおさらだ。問題は、この素晴らしい金がトリノで唯一のメダルとなりそうなことだ。

 日本がオリンピックのためにいくら使っているか。これがまた巧妙に分散されていて、とてもじゃないが個人では算出なんかできないが、けっこうな金額だろうなというのは、スポーツ、特にウィンタースポーツをやっていた人間ならすぐわかる。企業なんかがPR費として出している分も、もちろんあるにせよ、某グループがあの有様では、やっぱり税金から出てるわけだ。
 スポーツに金を出して、じゃあオリンピックでメダル取ったらなんか国益あるのかというと、別にないが。しかし億単位の金だしてメダル一個なら、やはり高くついたなーとか思うわけだ。納税者として。

 この責任は、やはり誰かが取らねばならんだろう。その日は目前だ。指導方針を間違ったのか、それとも妙なしがらみで金の配分を間違ったのか。そのあたり、きっちり膿を出し切って、次の五輪に臨んでもらいたいものだ。いま、一生懸命に練習を積み重ねている選手たちのためにも、税金を支払い続けている納税者たちのためにも。まったく、頼むよ。私の税金はスポーツ強化費に使うなって注文つけたくなるじゃんか。





解題:
 最近、バカのように書き続けている映画シリーズの設定など。

 根底にあるのは人間性の回復だ。いや、こういう書き方嫌いだが。人間性の回復にともなう人格の激動というべきなのかな? 徹底的にククール側の心理描写を退けているのは、結局、これがマルチェロの物語だからだ。
 人を殺すこと、その殺し方を考えることが天性になっている。これはおよそ人間性を遠く離れた荒野だ。ここからどうやって帰るか。それが課題だ。もっともその回帰の機会は、これは彼の本質とは関わりなく外側からやってくる。それはきわめて深い部分に生じるが、だが外界からくる刺激への制御しえない反応だった。もし制御しうるなら彼はそれを退けただろうから。

 実際のところ、現在まで記述したのは、課題前の部分までだ。だからここから先は書かないほうがいいのだが、まあいいや。書き終われるかどうかなんて、私に限っては問題ではないからだ。(なんて迷惑な)
 変容はすでに始まっている。だが一歩ずつ人間性への回帰を果たすなかで、マルチェロの上には非人間の荒野で行なってきたすべての悪行の記憶と罪悪感がのしかかってくる。彼がしてきたのはいかなる法、いかなる倫理でも許されるものではないから、彼はこれから打ちひしがれるか狂気を願うかそれとも死を願うことだろう。
 あるいはそのきっかけとなったククールを憎みさえするかもしれない。しかしそれらすべては問題ではない。人間性への回帰はすでに彼の中の切なる希望となっていくからだ。招命とはそうしたものだ。

 何度も述べているように、私はキリスト教を信じていない。にも関わらず、一神教における神の概念というものに抗いがたく魅了されている。神というひとつの巨大な、曇りのない鏡の前に立ち、自らを映す『祈り』という儀式に対して私は恐ろしさとともに、すさまじい魅惑を感じる。
 それは、いってみれば物語でいう「真実の鏡」だ。そこに身を移せば、隠しようもなく己を見なければならない。己という存在の根底までも。物語のたとえを使うなら、そこに美しい姿を見出すことは稀で、たいていは怪物だ。
 マルチェロはその鏡を見出すのだ。なんと恐ろしいことだろう。この物語に説得力を与えるには、やはりククールの内面について、また行動の段取りについて述べてはならないだろう。これはマルチェロ一人の物語だ。

 それではなぜ、ククールを出したか。これもまた私の信念による。人は愛のみによって、世界に対し傷つきうる能力を持ち、また変化しうる。部下やそのあたりではだめで、無垢で弟でもない一人の少年(女でもよかったが私の趣味)でなければならなかった。
 しかしそれゆえ、彼は今後、理解しがたい存在にもなるだろう。完全に善良な人間などというものはありえないからであり、そして、ククールもまた彼自身、マルチェロに対して、一つのつまづきの石だからである。

 ニノが出てくるのが嬉しいんだ、わたし。改悛者ニノと背教者マルチェロの対決。ノンパロでもパロでも、これ以上に大切なテーマはないと思う。





 まあいいや。で、私、続き、書けるのかなあ?(笑)
 こんなに大風呂敷広げちゃってさ。ああ、愛を下さい。


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