- 2006年02月23日(木) 『オール・ザ・キングスメン』: 鐘楼が十字架の形した聖堂の奥にあって、手前には、尖塔がひときわ高くそびえている。北側の辺には半円形の飾り板が戸口の上にあって、そこには両手を広げ、光背を備えたキリストが彫られていた。その右側には姿勢を正した使徒や聖人たちが、左側には追われていく罪びとたちの姿が、ロマネスクの単純だが力強い線刻で描き出されている。さらにその上には、細長い窓を隔てて円柱のように預言者たちが立っていた。その表情は定めがたく。 マルチェロは、黙ってそれらを見上げた。頭上の空は金色を通り越して、もう宵の気配を帯びた暗い赤色だ。左側には腕を絡めてククールが立っている。丘の上の古い教会はひんやりとした静寂に包まれて、ただ一度だけねぐらに帰る野鳥の群れが、頭上を渡っていった。そのまま階段を上がろうとしたマルチェロの腕をククールが引っ張った。 「帽子取るの、忘れてるぜ」 少しばかりとがめるような口調で言われた言葉に、マルチェロは一瞬、まじまじとククールの顔を見た。教会では帽子を取るという信仰深いものたちのルールにこの少年が従うことを意外に思ったからではない。そうしたルールがあったということを知っていた己にむしろ驚いたのだ。そして黙ってククールがボルサリーノを取るのに任せた。 天井の高い空間は薄暗く、しんとしている。薄い灰色の石の円柱にかかるアーチは凍りついた聖歌のようだ。並んだ長椅子と柱の向こう、奥の突き当たりには壇があり、その傍らには幾つものキャンドルが捧げられているらしく、ほのかに明るんでいる。ククールは胸の前で十字を切った。 「見せたいものがあるんだ、真っ直ぐに行って」 ククールの囁きにうなずいて、マルチェロは中央通路を歩き続けた。見上げた天井は薄闇に沈んで、立ち並ぶ円柱は化石した森を思わせた。 かすかにマルチェロは身震いする。聖所に足を踏み入れたことがないわけではない、長らく訪れていなかったわけでも。観光客で溢れかえるノートルダム・ド・パリは非公然の密談にぴったりの場所だし、群小の教会は取引や待ち合わせまで深夜の時間をつぶすのにちょうどよかった。 だがそうした場合はいつでも帽子を脱ぎなどしなかったし、連れは十字など切りはしなかった。犬小屋に入る犬のように、穴にもぐる熊のように、ただ扉を開けて足を運ぶだけだった。どこぞの娼館に入るのと変わらず。 マルチェロは奇妙な居心地の悪さと息苦しさを感じていた。平たくいえば教会にいるような気分になっていたのだ。だがククールは前に進むのをやめようとしなかったから、マルチェロもまた足を運び続けるほかなかった。 そうしながら、ふと思い出したのは最初に殺した男のことだ。ロザリオを肌身離さない男だった。暗黒街の住人にしてみれば珍しいことだった。 その男の名前をマルチェロは覚えている、ルイと言った。そのころ下町あたりに縄張りを広げつつあった両刀使いの若い男だった。ベネディクトはまだ十二歳のマルチェロに殺しをさせることに賛成はしていなかったようだが、ボスのニノに表立って反対できもしなかった。 「いいか、マルチェロ。何かを成し遂げるには犠牲も必要だ」 ニノは言った。 「お前は寝そべって足を開け。尻にやつの一物をくわえ込んでやればいい。それでせいぜい楽しませてやれ。しまいにやつが気をやったら、おまえは枕の下から銃を取り出して、ありったけの弾丸を景気よくぶっぱなせ」 それから太った顔の中で目を細めて付け加えた。 「もし心配なら、目を閉じて想像してみろ。目の前に見えるくらいまで、今言ったことを考えるんだ。うまくいくと思うまで繰り返してな」 そしてマルチェロはそうした。目の前にはじけた内臓が見えるように思えるほど繰り返して手順を頭に叩き込んだのだ。そして殺しは容易だった。マルチェロはシャワーを浴び、感慨もなく死体を一瞥して部屋を出た。そのときサイドテーブルの上に紫檀のロザリオが転がっていたのを覚えている。 サン・ペールの教会でククールが足を止め、マルチェロを見た。 「ここだよ」 白亜の大理石の円柱が半円形に囲む正面の祭壇を回り込んだ角、低い壇の上に置かれているのは一体の木像だ。それは赤い灯火を捧げられ、すべてが石造りの教会の中で不思議な温かみを帯び、生きているような様子でたたずんでいた。 「最初に会ったときから、似てると思ったんだ」 陶然と囁かれた言葉にも、マルチェロは黙っていた。木像は貧しい衣装を着た聖母マリアで、目は閉じて顔は悲しげに伏せられている。これまで見たことのあるどんな聖母の像にも似ていない種類の、世界に隔絶し、愛するものを失った厳しい悲しさが漂っていた。マルチェロはぼんやりと、ククールが大聖堂の前でスケッチした自身の素描とこの像は似ていると思う。だがこうも思った。これは私とは似ていない。そして少しばかり苦痛を覚えた。これは何の予感だとマルチェロは問う。だが考えを進めるより先に。 「なあ……」 マルチェロはククールを見た。暗さは暗く、少年の顔はわずかな灯火に照らされて陰影が深い。だがその青い目の明るさばかりは変わっていない。 「ここが教会じゃなかったら、キスしてる」 マルチェロは何も言わなかった。たった今、言われた言葉とは裏腹に、ぐいと肩をひかれ、暖かい唇が唇に重なってきたからだ。マルチェロは目を見開き、ついで驚きが薄れるとかすかに笑った。聖母の視線をさえぎるように、ククールがボルサリーノを掲げたので。それから目を閉じた。そうしているあいだにも、苦痛は静かに、取り返しのつかない形で胸のうちに広がってゆくようだった。 ------------------------------------ “You can't make a omlet without cracking eggs.” 「何かを成し遂げるには犠牲も必要だ。」 ジャック(ジョン・アイルランド)『オール・ザ・キングスメン』(49) -
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