- 2006年02月22日(水) 『アパートの鍵貸します』: パリから200キロ、サン・ペール村の近郊を、草色のトゥインゴが走っていた。運転しているのはククールで、ひどく揺れるのは、その運転技術のせいなのか、二十年もののオンボロな車体のせいなのか、それとも生垣に沿って走る田舎道の砂利のせいなのか、助手席のマルチェロは見当がつかなかった。そのどれでも同じだったと言ってもいい。 空はそろそろ暮れ色になずんでいる。パリの町を出てきたのは早朝だからこの遅滞の原因には、ククールの方向音痴とともにマルチェロ自身の地図読み取り能力の欠如も入っている。だがマルチェロがおよそ文句の一つももらさなかったのは別の理由による。 「なあ、マルチェロさん、大丈夫?」 愛嬌だけはたっぷりあるが持久能力そのほかには疑問の余地のあるトゥインゴを乱暴に止めて、ククールは気遣わしげに声をかけた。マルチェロはというと、力なく、さっさと行けとばかりに手を振ったきりだ。乗り物酔いはきわまって、もう吐くものもない。車を止めて小休止を取ったとて、どうせまたさんざん揺すられる道中が再開するのだから、同じことだった。 「ん。もうすぐ着くよ」 ククールはこの日、32回目のセリフとともにガタピシと車を発進させ、マルチェロはシートに沈みこんで蒼白な顔の上にボルサリーノをのせた。 この日の朝、マルチェロが遠出のむねを告げたとき、ダナエは怪訝な顔をした。一つには余暇やバカンスという概念があまりにもマルチェロと縁遠かったためであり、もう一つにはこのある種狂気を帯びたボスとともに長い時間をいて耐え切れる相手の心当たりがなかったためだ。だが問いをさしはさんだり、拒絶を唱えることはダナエの習慣にもマルチェロの習慣にもないことだったから、それより多く言葉は費やされなかった。 そしてトゥインゴはパリの町を出た。言い出したのはもちろんククールだ。誘い文句はきわめて簡単だった。曰く、「マルチェロさんに見せたい場所があるんだ」。大聖堂近くの喫茶店で言われた言葉にマルチェロはさして考えず許可を与え、その後に距離と交通手段とを聞かされて眉をしかめた。 ボルサリーノの影でマルチェロは眉を寄せてひたすら耐えている。思案はすべて頭から追い出されて、脳みそはあまりにひどく揺すられるのでどちらかに寄ってしまったようだ。そうした空白は珍しいものだったが、マルチェロは気づかなかった。ただ時々、聞こえてくるククールの鼻歌や低いハミング、トゥインゴの車体にはねる砂利の音を聞いていた。 ガタン、と大きく揺れて車が止まった。扉が開く音があり、風が吹き込んでくる。マルチェロは胃液じみたすっぱい唾液を飲み込み、帽子を少しずらした。運転席に運転手の姿はない。 「…どうした?」 低い囁きにも答えはない。仕方がなくのろのろと体を起こして、フロントガラスから外をうかがうと、少年は銀髪を翻して車の前方に立っている。大仰にためいきをついて、マルチェロは車を降りた。足の下にでこぼこした道を踏んでも、三半規官はおよそ狂ったままで、体も頭も揺れているようだ。 「ククール?」 呼びかけられて振り返った少年の顔に夕日は明るく輝いている。子供と大人の半ばにあるようなその顔が笑って、指が遥か前方を指した。その仕草に誘われて視線を向ける。その彼方には小高い丘があって、頂きには十字架を頂いた塔がある。教会だ。中世の様式と見えた。 「マルチェロさんを、ここに連れて来たかったんだよ」 ククールが笑う。 「私を?」 マルチェロはほとんど聞き取れないほどの低い声で囁き、夕日の中で輝く十字架の塔に再び見入った。教会はおそらく翼を広げた白鳥のような形をしているのに違いなかった。内陣には高い窓がしつられられ、柱頭と破風には無骨だが篤実な彫刻があるのだろう。およそマルチェロは無縁のものであるそうしたものを、だがこのとき、退けようとは思わなかった。 そうだ、退けようとは思わなかった。するりと絡んできたククールの腕を退けようと思わなかったように。その明るい笑顔を、頬に触れた暖かい口付けを退けようとは思わなかったように。 「よかろう、ただし」 マルチェロは言った。逆接の接続詞に、ククールが不安なように眉を寄せた。マルチェロは微笑する。およそ、自分でも思わぬほど穏やかに。おそらくかつて笑ったことがないほど穏やかに。 「ここからは歩いていく。いいな?」 「もちろんさ」 ククールは答えて、明るい笑い声を上げた。そして急いで駆けていって、トゥインゴからキイを引き抜き、錠をかける。また駆けてもどってきて腕を絡めてきたククールの格好がいささか頼りないのに気づいて、マルチェロは尋ねた。 「風邪を引かないのか、そんな薄い上着で」 「二十代初めのパリジャンが風邪を引く確率は、ニューヨーカーよりも低いさ。でも心配してくれんなら、このまま歩いてっていいって言ってよ」 マルチェロは何も言わなかったが、腕を振り解こうとはしないままに歩き出した。遠い教会は黄金でできているように光り輝いている。すべての暗い物思いは忘れられたように思われた。だが影は背後に長い。 ----------------------------------------- "You know that the average New Yorker between the ages of twenty and fifty has two and a half colds a year." 「20代から50代のニューヨーカーが風邪をひく確率は、 一年間に2回半だそうだ。」 C・C・バクスター(ジャック・レモン)『アパートの鍵貸します』(60) トゥインゴはものすごい脱力系のフランス車です。 ボルサリーノは大好きな帽子です。西洋ヤクザ映画の定番ですな。 サン・ペールは実在の村だな。 -
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