- 2006年02月21日(火) 『イヴの総て』: 銃口を押し付ける。引き金に指をかける。セーフティは外した、銃弾は弾倉に入っている。殺すなどというのは簡単なことだ、ただひとさし指のわずかな動きでやってくる。マルチェロは考える。長椅子の上に押さえつけられ、蒼白な顔をしてこちらを見上げているのは手下の若いリュパンで、殺されても誰一人騒がないゴロツキの手合いだ。 おびえた目を見返してやる。探るようにこちらを見る目は、これが冗談にすぎないというサインを探している。それともわずかなためらいを。だが見つけることはできないに違いない。そんなものはないのだから。しばらくそうしていると、銃口が触れる額を汗が伝い落ちた。なるほどそれが冷や汗だ。それから足元からは少しばかり臭いにおいと。 マルチェロは小さく舌打ちした。長く待たせすぎたのだ。失禁したリュパンの股間から湯気が立ち上っている。腹立たしさのままぎりぎりと眉間に銃口を押し付ければ、震えが伝わってきた。最初は細かく、次第に大きい。間の抜けた笑い声が半開きの口からよだれとともに漏れる。しまいにくるりと黒目が上に回り、白目が剥かれるにいたって、マルチェロは苦笑した。 「――おい、ダナエ」 銃口を引いて、マルチェロは傍らの男に呼びかけた。禿頭の男は先ほどから塩の柱になったように立ち尽くしていたのだが、ふいに声をかけられて、魔法を解かれたようにはっと顔を上げた。 「はい、ボス」 「シートベルトを締めておけ」 いささか場違いな冗談に笑おうとしかけたダナエの顔が、銃声とともに凍りついた。マルチェロは撃ち殺された死体を無感動に見下ろした。ぐったりと横たわったリュパンのシャツの胸のあたりには丸い小さな焦げた穴があいており、そこから血が音もなく湧き出していた。 マルチェロは顎のあたりに散った返り血を袖で乱暴にぬぐうと、体を起こして銃をポケットに押し込んだ。鼻をくすぐるのは硝煙の匂いだ。 「ボス、どこへ?」 背後からの問いに、マルチェロは答えなかった。ちょうど考えていたところだったからだ。ククールという銀髪の子供もこんなふうに死ぬのかと。だがそれは、どうしても本当だとは思われなかった。 奇妙に心騒がせる二度目の別れのあと、マルチェロはその屋根裏部屋を訪ねようとは思わなかった。だが思いがその上を去ることもなかった。銀行強盗を二度、美術品の強奪を一度、そして人を五人殺すあいだ、マルチェロはただそのことだけを考えていたといってもいい。 だがどうすることができるだろうか。答えの予想もつかない問いの前に立たされたように、マルチェロは苛立ちを強め、凶暴と残忍とを増した。しかも少しも気は晴れなかった。このままではパリ警視庁が朝ごとに新しい死体を発見するのも遠いことではないとダナエが危ぶんだのも間違いではない。 大聖堂前の古い通りは、絵描きの卵のたまり場だ。イーゼルの裏側に、見本代わりにデフォルメや美化を加えた古い絵を並べて客を待っている。年齢も人種も男女も関わりなく。芸術の都パリならではの光景といえた。 だがさすがに冬場は減る。重苦しい曇天の下、指なし手袋にひざ掛けと重装備で座っているのはわずかに数人だった。マルチェロはサングラスの下からちらりと周囲を見渡し、上着の胸ポケットからゴロワーズの青い紙箱を取り出して、細い両切りを唇にくわえた。 ゴロワーズが好きなわけではない。どちらかというと、マルチェロに好みさえない。よく、彼の最初のボス、ニノが笑って言ったものだ。おまえは酒も煙草も女も一級品を苦もなく見分けるくせに、それがたいして好きというわけじゃない。本当のところは何でもいいんだ。妙な男だよ、本当に。実際のところ、煙草の火をつけたのは鼻につく硝煙の気配を追いやるためだ。 煙は細くたなびいていく。マルチェロは通りがかる観光客や買い物帰りの老婆、信仰狂いらしい老人の殺し方を考えて暇をつぶした。二十人ばかり頭の中で殺してみただろうか。想像の中で、細っ首の少女を石畳の上にたたきつけたあたりでマルチェロはふと気づいた。気づかぬうちに正面にひとつイーゼルが立って、ニットの帽子をかぶった少年が木炭を動かしていた。 それが誰だかたやすく知れた。マルチェロは色ガラスの下でわずかに視線だけをそちらに向ける。少年はこちらを見ているのに違いなかった。その木炭の筆が書いているのは己に違いなかった。マルチェロはふいに、自分の心が、乾いたスポンジに水を含んでゆくように、奇妙な仕方である種の飢えを急速に満たしているのではないかという思いに駆られた。 だが同じほど奇妙な憶病さによってその場を動こうとは思わなかった。ただ少年がちらちらとこちらを見て、一心に手を動かしていることに満ち足りていた。信じがたいことに、それによってある種の幸福を感じていたといってもよかった。およそ幸福などというものには無縁なはずだったが。 どれだけのあいだ、そうしていたのか。マルチェロは知らない。ただ願ったとおりの永遠でなかったことだけは確かだ。足音が近づいてきて、マルチェロは顔を上げた。少し低いところに銀髪が揺れて、青い目がこちらを見上げている。マルチェロは言葉を見出さなかった。 「こんちは」 マルチェロはサングラスを外した。少年の微笑がふいに近い。 「また、会えてうれしいよ、マルチェロさん」 マルチェロは何も言わない。むきだしになった顔を北風が吹いていく。ククールの手がのびて、冷たい頬に触れた。 「俺、あんたが好きみたいなんだ」 マルチェロは何も言わなかった。ただ考えていた、どうしてその言葉がそれほど胸を深くえぐるのかと。マルチェロは何も言わなかった。ククールが腕を開いて思いがけないほど強く彼を抱きしめても、頬が頬に触れても、冷えた髪の毛が唇に触れても、マルチェロは何も言わなかった。ただ考えていた、自分はけっしてこの少年を殺すことができないだろうと。 -------------------------------------------- “Fasten your seatbelts, it's going to be a bumpy night!” 「シートベルトを締めとくのね。今夜は荒れるわよ!」 マーゴ・チャニング(ベティ・ディヴィス)『イヴの総て』 このマルチェロは、受けです(いまさら) -
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