- 2006年02月16日(木) DVDになるといっそう凄絶だ…。<リヒター指揮「マタイ受難曲」 「あなたがたの一人が私を裏切る」というイエスの言葉のあとに すぐ続くコラールが答える。 「それはわたし、罰せられるべきはわたしです」 それはつまり、そういうことだ。 イエスを十字架にかけるのは全人類の罪のひとつひとつなのだから。 ペテロに対しつまづきの予言をなすとき、あまりにひどく弦の音色は嘆く。 誰もイエスの孤独を救えない。彼はたったひとりで行くしかない。 彼の道は細く一筋で、荒野の中で光り輝くようだ。 ペトロの裏切りをユダの血を、愛ゆえに彼はその背に負って行く。 こうした思想、こうした犠牲の子羊を前提とする文化的意識とは、 まさしく日本人、この汎神の民のあずかり知らぬところにある。 そうした認識を持つ信徒はけっして孤独となることがないだろう。 彼には、まさに彼のためにその命を投げ出したもうた神が常に寄り添って、 そしてともに行く。その道は孤独ではない。彼はあがなわれたのだ。 同時に問いたい。こうした認識のもとで悪をなしたら、 それはどのように悔恨となり、どのように懺悔となるのか。 どのように放蕩息子は戻り、どのように神は迎えるのか。 あるいはそれにはなんら特別な会話はいらぬのかもしれない。 ただ思い出すだけで足りることなのかもしれない。 わがために救い主は十字架にかかり、わがために血を流したもうたと。 それですべては旧に服し、罪はすでに許されて、ただ泣くよりないのか。 だとすれば神の救いや回心は思案の外だ。それはどのようだろう。 ペトロについてのレチタティーヴォが語る「泣いた」という言葉のようか。 アルペジオは、散らばる涙のようだ。 これは誰の涙だ。――泣けよ、わが眼。じつに多勢の人々が言ったろう。 こうした音楽を現出させねばならなかった人々の、 また最初に心に抱いたその人の、凄絶なる悲しみを思わざるをえない。 神を愛すること深ければこそ、その神を殺した我が罪は重く感ぜられる。 どのようにせば救われよう。どのようにせばこの涙は尽きよう。 ただひとり教会に立って、光を見上げよ。そこに尽くるなき神の愛がある。 しかし結局、これは私にとってつまり解釈の問題に過ぎない。 魂の問題について、三人称で語るとは、本来、奇妙なことだが。 -
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