終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年02月15日(水)

『カサブランカ』:

 屋根裏部屋は狭くて寒い。マルチェロは黙って部屋の中を見回した。テレピン油と絵の具の匂いがたちこめ、壁という壁には絵が積み重なっている。ククールはストーブに火を灯したり、薬缶に水を汲んだり忙しく立ち働いていたが、そのうちガタガタと床を鳴らして椅子を引っ張り出した。それも絵の具だらけだ。それから言い訳がましく言う。
「大丈夫。乾いてるから、服にはつかないよ」
 マルチェロは黙って座った。ククールはいつものように整った顔をくしゃっとさせて笑うと、燃え始めたストーブの上に黄緑色の薬缶をかける。十一月の午後三時の陽光が街を斜めに照らし、その向こうに大聖堂の角ばった屋根がひときわ明るく輝いているのが窓の外に見えた。
「眺めがいいのが気に入ったんだ。七階まで上るのは疲れるけどさ」
「そうか」
 マルチェロは短く答えて差し伸べられたボウルを受け取った。カフェオレの甘い匂いが立ち上る。ボウルは端が少し欠けていた。
「おまえ、画学生か」
「そうだよ。普段は学校に行ってるか、大聖堂の前で似顔絵描きなんかやって生活費を稼いでる。息抜きに映画を見るけど、わざわざ映画館に行って見るのは古いのばっかりだよ。安いし。あんたも?」
 マルチェロは問いに対する答えにうなずきながら、ククールの顔を見た。まだ温まらない部屋の中で、マフラーも上着も着たまま人なつっこい笑顔をこちらに向けている。二十歳になったばかりだといっていた。

 会うのはこの日が二度目だ。最初の出会いは最悪だったといっていい。映画館の狭い通路でククールが抱えていたココアのカップがひっくり返り、マルチェロの白いセーターをどうしようもない色に染めたのだ。おかげで映画鑑賞は半分がたフイになった。だがそのときカップがひっくりかえらなければ、この少年には二度と会うことはなかっただろうし、なによりこの日、この狭い屋根裏部屋に来てはいなかっただろう。
 おかしなものだと考えながら、マルチェロはぼんやりとカフェオレを飲む。向かいの椅子にはククールが座ってなにか話していた。好きな映画だとか、最近見た映画の感想だとか、今の映画と昔の映画の比較だとか。
 マルチェロはときどき頷き、生半可な相槌を打っていた。見え隠れするカンバスに対する評価は、女や男や風景、動物なんかが殺風景な部屋をにぎやかにしていると思ったくらいで、美醜はわからなかった。ただ光を強調する技法が、いつだったか見た印象派の画家の絵を思わせるとぼんやり考える。

「……?」
 問いかけられてマルチェロはふと顔を上げた。何か尋ねられたらしいことはわかったが、内容を聞いていなかった。ククールは少し心象を害したように唇をとがらせ、だがもう一度問いかけを繰り返した。
「マルチェロさんって、何をしてる人なのかと思ってさ」
 素朴な問いかけに、マルチェロは唇の端で笑った。
「あててみろ。ウィかノンで答えてやろう」
「平日の昼間から映画見てるんだから、勤め人じゃないよな」
「ウィ」
「家が資産家の金持ち?」
「ノン」
「休暇で旅行中のイタリア人?」
「ノン」
「株の投資家?」
「ノン」
「失業中の楽団指揮者?」
「ノン、だ」
 答えて、それがあまりに縁遠い職業だったことにマルチェロは笑い出した。ククールもつられたように声をあげて笑う。それからマルチェロをのぞきこんだ。その目が空色をしていることにマルチェロは気づいた。明るい、美しい色だ。そうだ、空はこんな色をしているのだろうとマルチェロは考える。
「ヒントをくれよ。昨日の夜は何をしてた?」
「そんな昔のことは覚えていないな」
「今夜の予定は?」
「そんな先のことは知らんな」
 ククールはその問答に、思い当たったように笑い、片目をつむった。
「ハンフリー・ボガードだ。じゃあ、バーの経営者?」
「近いな。だが違う。さて、私は用事がある。もう行くぞ」
「あ、ゴメン。引きとめたね」
 マルチェロは立ち上がった。ククールの手に空になったボウルを渡す。くったくなく少年は笑い、先に立って戸口を開けた。
「あ、ちょっと待って。肝心なことを忘れてた」
 足音を残してククールは部屋の奥にかけこみ、紙袋を持ってすぐに飛び出してきた。それをマルチェロに押し付ける。
「これ、セーター。渡すの忘れるところだった。染みは落ちたから」
 マルチェロは頷いて紙袋を受け取り、下まで送るというのを断って、長い暗い階段を下り始めた。安い板の延々と続くきしみを経てようやく戸口にたどりつき、表に出ればすでに日差しは翳っている。

 夕食は三番街あたりで取ることにした。歩いていけばちょうど開店時刻に着く。そう考えてふと、マルチェロは気づいた。一緒に居る間、一度も、自分は、あの少年の殺し方を考えなかったと。そして愕然とする。
「……」
 見上げれば、まだ光さす屋根裏部屋の窓が開いて、銀髪の少年がこちらに手を振っている。マルチェロは凝然として、表情さえ定かでない顔を見上げた。
 奇妙なことだった。いつもなら、相手を見ていればごく自然に考える種類のことだというのに。眉間を打ち抜くか、ナイフで心臓を一突きするか、それとも頸を絞めるか。それは手持ち無沙汰の手がいつも決まって撫でる肘掛の彫りもののような、物慣れた思考だ。
 それは普段なら挨拶をした次くらいに思いつくほど自然なことだ。朝起きれば顔を洗うために洗面台に向かうのに何の思考も必要としないほどに自然なことだ。寝台に上る前に靴を脱ぐほど自然なことだ。
 いったい今日、この日に何が起きたのかとマルチェロは自問した。そしてむろん、答えはない。それともあまりにも明らかだ。

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昼飯を行き着けの喫茶店で食った帰り、
職場まで帰るため信号が変わるのを待っていた。
すると50代半ばくらいのオッサンが話しかけてきた。

「すんません、JAはどこですか?」
「ああ…」

右手にスニーカーを持っている以外は何ら妙ではない。
まあ、ちょっと悪く言えばチンピラ風だったが。

「二つ先の信号のつきあたりですよ」

同じ方向だったので並んで歩く格好になったわけだ。
聞いてもいないのにオッサンが話し出した。

「いや、まいりましたよ。金を下ろせなくて。
 このあたりはうちの田舎と違ってJAがないもんですね」
「そうですね、銀行や郵便局はあるんですがね」

「じつは、12日間拘留くって、今出てきたとこなんですよ。
 だから金がなくって」

「ああ、そうですか。大変ですね。中央署ですか?」
「そうなんですよ」

ん?いまのは驚くところだったのか?
しかし2+10日の拘留だったらせいぜい小悪党…。
いやそういう問題じゃないな!
あんまり平然としているのはやめよう。そうしよう。


*逮捕されると、48時間以内に検察に送致されます。
 それから10日間拘留されて取り調べ、さらに重大事件だとかだと、
 もう10日間、拘留されることになります。つまり12日目で出てきた
 このオッサンは、取調べの後に「不起訴」「起訴猶予」もしくは
 「在宅調べ切り替え」「保釈」などでシャバに出たということですね。
 詳しくは刑事訴訟法をどうぞ。


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