- 2006年02月13日(月) 『商船テナシチー』: 「運命は、従うものを潮にのせ、抗うものを曳いてゆく―」 壁にかけられたポスターに、マルチェロはふと見入った。手書きのそれに書かれた公開日付は、もうよほど昔のものだったが、最近、この通りの先の小さな映画館では名作映画の上映を始めた。おそらくはその宣伝だろう。 歩行者天国の商店街の一画、小さな喫茶店の窓際の席で、マルチェロは、ポスターの端に書き込まれたコピーの意味を考えた。眉間には描いたように二本の皺が浮いて、彼を知る人間ならさもあろう、何もかも運命と片付ける甘っちょろい言葉に不機嫌になっているのに違いないと考えたに違いない。 実際、そうであったとしても不思議はなかった。マルチェロという男は、いわば、クールでタフで、得体の知れない男だ。人殺しも盗みも躊躇せず、いかなる種類のモラルにも掟にも、そして法律にも縛られていない。 銃撃戦で十人も殺して銀行の金庫からあり金すっかり盗みだしたあとに、白いスーツについた血の染みを蘭の花で優雅に隠し、上流階級の紳士淑女に立ち混じってダンスの一つも踊ってみせる。その翌日には観光客に混じってルーブルをうろつきながら盗む絵を物色し、そのあいだに郊外の小さな教会では匿名で大金が届くという具合だ。 付け加えるなら、さらに翌日には小さな教会の神父が謎の寄付金を持って出奔した記事が出ていないかと三面記事をたんねんに読むような。要するに誰も彼が何のために動くのかを知らなかったのだ。しかも、彼を阻むこともまた誰にもできないことだった。 運命という言葉には、およそ縁遠い男だった。それにも関わらず、運命が「ある」とマルチェロは思っていた。信じていたといってもいい。 いつだったか、マルチェロは言ったことがある。相手はもう死んだ。 「私は信じているんだ。私は信じている。それはこういうことだ。たとえばある朝目覚めると、見たこともない場所にいる。それとも知ってはいるが、思いがけない場所にいる。ぼんやりしていると扉が開いて、誰かが入ってくるんだ。男かもしらんし、女かもしらん。知っている相手かもしらんし、顔を見たこともない相手かもしらん。だがそれはどうでもいい」 秘密めかすように声をひそめる。相手はあるギャングの親分だったが、得体の知れない思いに首をすくめた。もちろん後ずさることはできなかった。 「そいつは私に笑いかける。そして朝食の用意がもうできていると告げる。急がなければ勤めに遅れると。それで私はその通りだとわかる。わかるか。そいつを殺すことはできないとわかるんだ。わかるか? つまりこういうことだ。私が拳銃を持ってそいつの前に立ったとしても、けっして引き金を引けない、けっして傷つけることはできないとわかるんだ。朝食のパンがかりっと表面が固く、内側が詰まったベーグルだとわかるようにな。しかし話は変わるが、私はお前は殺せる、豚を殺す豚のような気持ちでな」 そしてマルチェロは芝居気たっぷりに指を鳴らし、背後に控えていた若いヒットマンが相手を一撃のもとに撃ち殺した。 映画館をのぞいてみることに決め、マルチェロは立ち上がった。喫茶店の隅では黒服の護衛が顔を上げる。このあと三人ばかり殺す用事があったが、それは後でもよかった。勘定書きの通りにコーヒーの代価を支払って、店を出た。この街ではむろん彼の名は良くも悪しくも高いが、どんな店の主人も「金はいいよ」とは言わない。そう言っただけで殺された男がいたからだ。しかもマルチェロは機嫌が悪くさえなかったのに。 街の通りはいつもの通りに雑踏だ。アーケードの下をハトが飛ぶ。十字架さながら翼を広げて滑空していく。わずかに上りの商店街は石造り、迷路のように曲がっている。マルチェロは微笑し、上着の釦を留めずに歩いた。 やがて目に入った映画館の前には、熱心な映画ファンだろう男女が静かな短い行列を作っていた。もうすぐ幕が開く映画はそれなりの名画なのだ、とマルチェロは思う。タイトルは何だったか。コピーは頭に焼きついたが、タイトルはそれほど印象的ではなかったのだ。列の最後尾について考え続ける。頭上には大きなゴシックで書かれていたのだが、見もせずに。 そうして考えるマルチェロは、知らなかった。三人隔てて前に立っている少年の名がククールということを知らなかった。その少年が熱いココアの紙カップで手袋のない手を温めていることを知らなかった。この映画が好きで何日も前から公開を楽しみにしていたことを知らなかった。 マルチェロは知らなかった。ココアをすする幸せそうな少年がやがて彼の運命として立つことを知らなかった。その額に試しに銃を突きつけてみて、自分がけしてその少年を殺しえないとわかるということを知らなかった。 ククールは知らなかった。上品な老女たちを三人隔てた背後に暗黒街でも恐れられている男が立っていることを知らなかった。その男がマルチェロという名だということを知らなかった。その男をやがて愛し、愛されるだろうことを知らなかった。 ククールは知らなかった。何も知らなかった。わけてもそれら全てが楽しみにしていた映画の終わる前にすっかり起きてしまうことを知らなかった。ココアで手を温めながら、開演を待ちながら、そんなことは少しも知らなかったのだ。 この映画、見たいんだけど…。 コピーだけでこれだけゾワゾワさせてくれる作品もないよなあ。 コピーだけでこんなモン吐き出す私もアレだが。 野口久光のポスターがゴイスーなんですわ。 -
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