終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年02月12日(日)

つ、つかれた。
ガシャポンの「バジリスク」「砂に流れる水」を長いバージョンでアップ。
紙媒体は面積の問題があるから、だいたい三分の一くらいに切ったが、
サイトに上げるのは長いほうということで。

短いほうがサッパリしていて気持ちいいんだが、まあいい。
バジリスクに関してはエロ+政争+戦争で長編やらかせるかもだ。
ちょっとしばらく練ろう。それがアレになるかもしれない。






一夜明けて、仕事場。

誰もいないのをいいことにリヒター指揮「ミサ曲ロ短調」を聞いてる日曜。
昨日、どうあっても東京に出るためにたまってる仕事をすっかり片したから
やることがなくて困る。資料でも読んでおくか。

ところで、今回参加させていただいたアンソロの中の自分の文章に
なんだかショックを受けた。誤字脱字の件は置いといてだ、泣きながら。

改行がなってない。というか……ヘタだ!
まさに字の壁、息を継ぐ空間がない。これはいかん、絶対にいかん。
ポリフォニーの聴きすぎか? 音痴のせいか? なんだこれは。
平面として構成しようとする努力をしたことなかったんだと気づく。

やはり紙媒体は、紙媒体はッ……!(涙)

方向性とかそういう問題じゃなく、ただ単に平面としてダメだ。
それから、読点を振るか続けるかの選択があいまいだ。
これがリズムを崩す最大の原因になっている。文章を考えよう。


グレン・グールドは
「『どのように1000本の足を動かしているのか』と聞かれたムカデは
 そのように考え出すだけで身動きもできなくなる」
として演奏技術の意識化を嫌ったが、文章においては事情は違う。
文章に求められるのは細部にいたるまでの意識化だ。
ギリシアの悲劇作者ソフォクレスが先行する詩人たちについて
「かれらは自分たちが何をしているのか知らない」と
あざけりとも不安ともつかない言葉を残している。
現在が求めている文章は、これは恍惚(エクスタシー)さえも
意識化され、配列され、順序だてられたそれだ。
心が二つに分割されるというのなら、それさえも書き尽くせ。


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