- 2006年02月02日(木) 変奏15: 高台の庭からは、リーザスの村と麦畑の広がる美しい平原が一望できる。白い花の咲き乱れるあずま家で、ゼシカは遠くへと去る馬車を見送っていた。風景は遠く、どこまでも遠く、馬車は中をのろのろとしか進まないようだ。天の高みにある太陽の光が静かに、扉の上の大鹿の紋章を照らしている。 あの馬車の中で、とゼシカは考える。あの馬車の中で、ククールはきっと、薄い唇を結んで、青い目を遠く彼方に向けているだろう。その思いを占めているのは、マルチェロという名前の男のことだろう。 ククールはなにも言わなかったし、ゼシカも尋ねなかったから、すべてがわかったわけではない。だがおぼろげながら事情は察せられた。かつてのロッセラの町の聖母教会学校の給費生、後にオルガン奏者で若い作曲家となり、校長が殺された夜に姿を消したマルチェロという名前の男を、ククールは愛している。 ゼシカは嘆息した。ククールはマルチェロという男を愛している。それについては、何を言う気もなかった。ゼシカの見るところ、一つ年上の銀色の髪の従兄弟は、これまで女とみるや貴婦人であると町娘であると問わず気ままに愛を囁きつつ、そのじつ愛されることも愛することも望んでいるようには思えなかった。 固い躾を受けたゼシカは、そうしたククールの態度を快くは思っていなかったが、本人にもどうしようもないことだろうともうすうす感じていたから、顔をあわせた時に釘を刺すだけにしておいた。ククールのそうした奇妙な隔ては、父から省みられず母を早くなくした不幸な生い立ちのせいなのだろうとゼシカは感じている。 だからククールが本当に愛し、愛されたいと願う相手を見出したのなら、それは喜ばしいことだった。たとえそれが結婚や、家庭生活といった世の幸福とは関わりない種類のものであってもだ。だが、もしも、その男が殺人者であったならどうか。 オディロはけしてはっきりとは言わなかったが、その夜の後に、マルチェロが校長の下手人として名指しされたのだろうとゼシカは思っている。本当にそうかというと、それはまた別のことだろうが、強い不安をかきたてられることに変わりはない。 ゼシカは嘆息する。花々の香りは快く、かすかな風は葉を鳴らして吹き渡る。心地よい初秋の午後だというのに、思いばかり晴れない。 サーベルトとゼシカの兄妹とククールは、幼い頃、アルバート家の古い屋敷で、実の兄妹同然に育った。今にして思えばそれは公爵家の不幸のせいだったが、幼い子供らには、そんなことは知るよしもなかった。音楽室に忍び込んで楽器をてんでに鳴らして怒られたり、リーザスの村の子供と遊び回って泥にまみれたりと日々は忙しく楽しかった。終わりがあるなんて、考えたこともなかった。 だが実際に終わりは来たのだし、そのときには誰も泣かなかった。ゼシカはその胸の痛む夜をありありと思い出す。それは風の強い夜だった。馬車は車止めに止まり、公爵は家の中に入ろうとさえせずに幼い息子をせきたてた。 (「お別れをしなさい、ククール」 背の高い公爵が威厳に満ちた声で言った。銀髪の甘ったれのいたずら好きのククールは、ひどく青ざめてゼシカとサーベルトを一度ずつ抱擁した。貴族の子であるというのはそういうことだ。運命が突然に襲い掛かるということを知っている。 「さよなら。さよなら。大好きだよ、ゼシカ。大好きだよ、サーベルト」 「さよなら、忘れないわ。忘れないわ、ククール。大好きよ」 「さよなら。手紙を書くよ。きっと書くよ。ククール、忘れないで」 「さよなら。さよなら。手紙を書くよ。忘れないで」) 無慈悲に閉じた馬車の扉と、走り出した車輪の音は、いまでも鮮やかに思い出せる。いつまでも手を振っていたことや、届いた最初の手紙ののたくったミミズのような文章を兄と二人して首をひねりながら何度も読んだことも。急いで出した返事にはさんだバラの花びらのことも。公爵の城を訪ねていいといわれた夏が待ち遠しかったことも。その再会の日に、知っているより大人びた顔をした、喪章をつけた少年が大きすぎる石の城館の門の前で待っていてくれたことも。 私には兄さんがいたし、兄さんには私がいた、とゼシカは考える。でもククールは一人きりで、いつ頃からかその目の奥には影が深くなっていった。よく笑うようにはなったけれど、その声もそらぞらしいばかりで、何一つ楽しんでなどいないようで。 ゼシカは胸の痛いような思いで、暗い部屋ではじけたチェロの弦と、流れた血のことを考える。ククールがほんとうに誰かを愛し、誰かに愛されることを望んだとき、それはおよそ危険なものになりかねないほど切実な感情だろう。マルチェロという男が人殺しだったとしても、ククールはその思いを諦めないに違いない。 どんな結末がこの先に待っているのか、ゼシカは考えることさえ恐ろしく、だがどんな言葉も、心を決めたククールには無意味だということもわかりすぎている。それでもひどい胸騒ぎを覚えて、言わずにはおれなかったけれど。馬車の扉が閉まる前に。 (「お願い、ククール。自分や伯父様を傷つけないと約束して」 振り返ったククールはひどく悲しげな顔をしていた。唇の端には微笑をのせたままで。 「おかしなことを言うんだな、ゼシカ」 「おかしくなんかないわ。あなた、自分がどんな顔をしているか知ってるの?」 「いつもの顔さ、ゼシカ。男前だろう」 「またはぐらかすの?」 「お姫様に引っ叩かれそうだ。俺は行くよ」 「待って。待ちなさいったら」 「わかってる。わかってるんだ。きみは僕を心配してくれている。引っ叩いて首根っこを引っつかんで、そんなにまでして一生懸命に止めてくれるのはきみだけだよ。心配してくれているのはきみだけだよ。わかってる。わかっているよ」 「それなら、ククール」 「それでもさ。ゼシカ。俺が何かをしようと決めたら、誰にも邪魔はさせないよ。それもわかっているだろう。きみは俺のたった一人の友達だから」 「わかっているわ。わかっているのよ。でも心配なの」 「きみが、俺が本当にしようと決めたことの成功を祈ってくれると信じてる」 「信じていいわ。わかったわ。行きなさいよ。行って、好きなようにすればいいわ」 「ありがとう。さよなら。さよなら、ゼシカ。大好きだよ」 「さよなら。このろくでなし、馬鹿ね。さよなら。大好きよ。また会えるって信じてる」 「さよなら」) ゼシカは立ち上がった。もう馬車は地平線の果てに消えて見えなかった。そのかわり庭園の緑の生垣のあいだを上ってくる兄サーベルトの明るい茶色の髪が陽光に輝いているのが目に入った。妹の帰還を聞いて、仕事の合間に館を抜け出してきたのだろう。ゼシカは重い不安のゆれる胸を押さえて、短い嘆息を落とした。 -
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