終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年01月18日(水)

 それで、グレン・グールドだが。グールド畢生の友人、ブルーノ・モンサンジョン編「対話集」を読んでいる。そこで気になった発言の一節をここに挙げたい。

「家にいてこそ、あらゆる仕事が出来るんですよ、新しい作品の練習とか、昔の作品の再検討とかね。とりわけ冬がいい。冬だと、湖が凍って、地平線まで、見えるのは氷と雪だけなんです」
         1959年、カナダ放送によるインタビューに答えて


 恐ろしいほど孤独な27歳の音楽家の姿が目の当たりに浮かんでくる。シムコウ湖畔の一人の家で、雪と氷だけを見ているグールド。なにより心を動かされるのは、その状態が彼をほんとうにくつろがせているということだ。これはサハラやらシリア砂漠やらの荒野をいいかげんほっつき歩いてきたものの偽らざる感想だ。そうした風景は確かに美しい。だがその美しさは、薔薇や女のそれではない。人間の感性、人間の指先をすり減らし、知らず知らずのうちになにかを疲れさせる、ざらついた非人間的な美しさだ。
 あの独特の美しい顔立ちの青年、まだコンサートを立ち去るまでには5年あるが、もうすでに心はコンサート会場にないグールド。このインタビューではないが、彼の言葉でやはり心に残るものがある。一定時間誰かといたら、必ずそのX倍の時間を孤独で過ごす必要があるというものだ。これはほんとうに、本質的に孤独な人間の言葉だ。
 雪と氷の風景。それは彼の好きな灰色の濃淡だ。彼は少しも気取らない。ただ灰色を愛しているという。すると世の中が勝手に彼をエクセントリックと見る。彼はにこりともせず言う。なら僕はエクセントリックです。
 そして彼は音楽の中に入っていく。音楽は彼の人生の多くの部分を占めている。彼はそこに、まさにそこにこそ、美や観念を見る。書物をもちろん彼は読むし、素晴らしい読書家でもある。友人も多い。たとえそれが電話だけの友人であったとしてもだ。だが、彼にとって、本当のものは音楽ひとつ。そこで彼は、概念を肉付けする経験や、動機や、そのほかいろいろなものを得る。またそれらすべてをつなげるものを。
 彼は意外に常識人だが、生活や身なりや、そのほかすべてが音楽のもとに捧げられているから奇矯に見える。夏でも外さない手袋やマフラーが人々の目には奇異に見える。彼は最初は面食らう。そして彼の理屈ではそうしたものは当然だとわからせようとする。だが世間は誤解したいように誤解するものだ。彼は肩をすくめてピアノに向かう。つまりそれはこういうことだ。頼むから、僕はやめて音楽だけにしないか。



 死は夢に属する。境界線の向こうにいったものは帰ってきて話をしてくれることがないから、もちろん夢で見たり織ったりしなければならないわけだ。夢は死を恐ろしくも美しくも織り上げる。だが死は死だ。どれだけ夢見ても、厳然として未知であり続ける。
 それは、グールドがどれだけ鮮やかに旋律を織り上げ、鳴っていない音を予感させることで想念を明瞭に描き出しても、その音楽が、形としてこの世界に実質や色や形を得ることがゆめゆめありえないようなものだ。それは人の思いの中だけにある。
 ここにもうひとつ、この本からではないけれど、深く心を動かされたノートについて書いておきたい。それはグールドが弾いて世界を動かしたJSバッハ「ゴルトベルク変奏曲」の主題となっているアリアについてのことだ。このアリアは他者の作で、もともとは「アンナ・マグダレーナ・バッハの楽譜帳」に書き留められていた歌曲だった。その歌詞を引きたい。


「あなたが一緒にいてくださるなら、
 喜んで行きましょう。死と安らぎへ。
 ああ、わたしの最後のときは、どんなに楽しいことでしょう。
 あなたの美しい手が、わたしの忠実なまぶたを閉じてくださるなら。」
          鳴海史生、レオンハルト版同曲ライナーノートより


 なるほどこんな曲だったのだ。バッハが他に例をみないかたちの変奏曲の主題とし、またグールドがそのキャリアの最初と最後に弾いたのは。


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