- 2006年01月17日(火) 声楽に関するごく簡単な私自身の趣味に気づいた。 わたしはカウンター・テナーが好きだ。 ウィリアム・タワーズが好きだ。ものすごい好きだ。 この人の後には女声なんか聞けない。この人のは声じゃないから! つや消しガラスから透ける雨の朝の光だから! だめだ!背中がゾクゾクするよ!骨が溶けそうだ…。 イニシュモア島の南岸、はるかに続くドン・エンガスの断崖上に、古い砦がある。この島のおよそあらゆる建造物と同様、灰色の石を積んだ城壁は崖際にとりついた半円形をしている。作った人々はどこから来たのか、どこへ行ったのか、いずれも知られていない。なんにせよ二千年前の話だ。 百メートル下方の海は青よりも暗黒に似て、打ち付ける波のみ花嫁の襟飾りのように白い。風は霧を含んで冷たく、絶え間なく、海から寄せる。 「見てごらんなさい」 先生が言った。私たちは散歩に来ていたのだ。それは曇った日で、空には銀色の太陽がぼんやり浮かんでおり、真綿の中のレースのような雲が流れるにつれて、翳ったり少し明るんだりしていた。 「この島はもともと岩盤だけでできているの。移り住んできた人々はまず、海藻を焼いて土をつくるところから始めなければならなかったのよ。それは営々とした営みで、だからこそこの地を愛する想いも深い」 先生の言葉は、車椅子を押す私の耳に切れ切れに響いてきた。私たちは内側の城壁の中におり、足元の石はさっきまで降っていた粉のような霧雨に濡れて暗い硝子のようだった。そうして、断ち落とされたように、私たちの数十メートル先で城壁は終わっている。地上も。人間の国も。 「ねえ、あなた」 先生がふと言った。 「この砦はむかし、きっと円形をしていたに違いありません。いいえ、今でも円形をしているのですよ。ただ、向こう側の半分が見えないだけで」 先生は声を上げて少し笑い、不自由な右手をかばうように膝の上に両手をそろえて、私の方を見上げた。いつものいたずらっぽい目で。 「ええ、そうですよ。ねえ、わかりますか、向こう側の半分だったのですよ。ティル・ナ・ノグ、かれらトゥハ・デ・ダナーンの郷は。私たちが想うことを忘れてしまったから、こんなふうに引き裂かれたよう見えるのね」 私は目をこらしたが、断崖の向こうには何も見えなかった。だがそのときまた霧雨が降り始め、薄日の中に幾重もの虹が浮かぶのが見えた。それはほんとうに、色があるかなしかの淡い虹で、遠いはるかなむかしから、奇妙な悲しみに満ちて語りかけるもののことばのようにも思えた。 「彼らはどこかへ行ってしまったのですか?」 「どこへも行ってしまってはいませんよ、あなた。ただ私たちがもう、彼らを見る器官を持たないだけ。憧れだけ、夢だけは残っているのにね。こんな、引き裂かれた傷跡のような断崖を見るたび、彼らをなくした悲しみだけはまだ胸に感じることができるのにね。ああ、本当に……」 それきり先生は何も言わず、そんなふうにして私たちは砦を後にした。 イニシュモア: アイルランドのゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島のうちのひとつ。 古代ケルト諸族の住んだ痕跡が今も残り、彼らの神話は妖精伝説として いまも豊かに息づいている。イニシュは島、モアは大きいの意味。 ティル・ナ・ノグ: 「常若の国」と訳される。ケルト神話における楽園、海の彼方の国。 トゥハ・デ・ダナーン: 伝説的なケルトの先住民族、その後、神格化され、 ダーナ女神の神族として永遠の若さと美の性格を伝説のうちに付与される。 -
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