- 2005年12月20日(火) 「言葉というのは雷光のように通じるもので、それは聞くほうがその言葉を 待っているからである。すんでのことで自分も言おうと、なかば口をあけて いるところへ言われたから、たちまち分かるのである。その反対に思っても いないことなら、いくら上手に言われてもわからない」 『平和なときの平和論』(山本夏彦) なんとなく納得した。 いや、私の書くものはわかりにくいと言われ続けているので。 そもそも土台が普遍的な見方から離れているんだ、きっと。 読み手のわかる範囲の外に自分の思いがあるなら、 やはりそれは、わからないだろうと覚悟を決めて書くべきか。 ファンタジーというのは、前提としての世界像が書き手に任される。 それは二次創作といえどもそうだ。一次内にはない設定を扱うなら。 そんで、私はそうした部分をいちいち書かない。 片言隻語からの想起を求めなければならないことあるのだ。 すべてを叙述するのはそれは物語ではないからだ。 この部分が難しいといえば難しい。 少なすぎれば十分な想起を期待できないし、多すぎれば駄作だ。 とはいえ、文章のよしあしはすべて、隠れた部分によると思う。 つまり、どれだけ書いたかではなく、どれだけ書かずにすませたか。 マルチェロは、宗教的な人間だ。これがまず根底にある。 私の書くDQ8世界の神はキリスト教的な創世・救済論を持つから、 彼の苦痛は神と人に対する罪にある。 書かれず、彼もまた想起しないが、苦悩はそこからくる。 人の罪を贖わんとしてひとり子を遣わしたもうた慈愛の神を、 世界の偉容を創造し、また己を創りたもうた創造主を悪もて裏切った。 それがマルチェロに最後に残される苦悩である。 それはどの文章でも確かに通奏低音をなしている。 彼が神の愛を信じ、自ら神のもとに帰る道筋を探しているだけだ。 「死にネタ」は要するに、その仮定とも、失敗譚ともつかないもの。 私はおそらく自分が書くだろう物語の終わりを先ごろ見たが、 そこに行き着くにはまだ遠いようである。 -
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