- 2005年12月18日(日) 雨の夜だった。ぼんやりと町の方の空が赤る闇を、霧のように無数の雨滴が渡っていた。陰惨な場末の宿屋、便所はそれはもうお話にならないひどい臭いがした。ククールが一人で酒を飲んでいると、扉が開いてエイトが入ってきた。バンダナを巻いた黒髪からは雨の滴が落ちている。あるいは少なくともククールはそう記憶している。 「トロデのおっさんのとこ、行ってたのか?」 「うん、食事をね。…気の毒だよ」 ククールは冬の雨夜の中を町外れで野宿している一匹の化け物と白い馬のことを考えた。もとは一人の王であり、一人の王女であったという話が本当なら、それは本当に気の毒なことだとククールは考える。だがそうした中でこの黒髪の少年のようにけっして態度を変えることのない臣下がいるということは、きっとかけがえのない心の支えとなっていることだろう。 エイトがククールの向かいに座を占めた。 「明日の朝早く発って、昼過ぎにはサザンビークに着く。そのことで陛下と話してきた。やっぱり町には入らないって」 「あのさ、おっさんに文書とか書いてもらった方が、中までスッと入れると思うんだけど。それくらいしてくんないわけ?」 エイトが苦笑して首を振った。 「だめだよ。国璽を押せないから偽文書と疑われかねない。下手に疑われるよりは用件をすっぱり話してお願いしたほうがいい。陛下も、サザンビーク王はもののわかる方だから、その方がいいって」 「そうか」 ククールは頭を傾げてまた考える。こうした夜更けの対話を交わすことは少なからずあった。ゼシカとヤンガスは夜更かしのきかないたちで、エイトがトロデのもとから戻る頃にはもう寝付いていることが多かったからだ。こうした会話は、ククールにはいつまで経ってもなれないものでもあった。何が慣れないかといえば、おそらくはきちんとかみ合っていたからだ。そうした対話はおよそあの修道院では縁遠かった。 あの修道院では、会話はすべて裏のあるものだった。学識に裏打ちされた厭味を薄いナイフのように切りつけあったり、無言の裏の微細な陰険さを毒のようにぶちまけあうことだった。そうだ、会話は常に、腹の探りあいや、刃の代わりに言葉を用いた切り合いだった。 互いに対する忌憚ない信頼と、同じ目的のもとともに進んでいるという確信を土台とした会話は、だからククールにはへんに居心地の悪いものなのだ。 「どうかした、ククール?」 「ん?」 ククールは顔を上げた。エイトが心配そうな視線をこちらに向けている。 「急に黙るから」 「どうもしねえよ。明日のことを考えてたんだ」 そうだ、エイトとのあいだにあるのは常に明日。明日だけだ。かくも凛とかくも静かに確かに、仲間たちと自分は明日に向いている。だが、どうしてそれがこんなにも、こんなにも寂しいのだろうか? そうだ、寂しいのだ。いったい自分はあの暗く淀んだ修道院の、人を傷つけ謀ることだけを目的とするような日々を恋うているのだろうかとククールは自嘲的に考える。いいや、そうではない。そんなゆがんだことではない。 「……ククール、どうしたんだ、ほんとに」 こんなにも誠実になりうるのだ。人は。仲間は。善良に、前を向いて生きることができるものなのだ。俺は、と、ククールは考えた。もしできるならあいつに、あのバカに、あのどうしようもないクソッタレに、こんなふうな仲間を与えてやりたかった。静かに互いを是認し並び労わる仲間を。俺は、俺はなんにもなくていい。こんなに幸せでなくていい。あいつに全部やりたかった。それができないことが寂しい。悲しい。切ない。 「ククール?」 ククールは我知らず両手を組み、そこに顔を埋めて、遠い雨の下で、誰といても誰もいないように生きる男に、血を同じくする兄に、なによりもその幸いを願ってやまないたったひとりのために祈った。 「……」 テーブルの向こうから手が伸びてきて、ククールの髪をそっと撫でた。それさえ、ククールは兄に与えてやりたいと思った。 -
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