終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年12月14日(水)

1:
楽譜が一種の里程標にすぎないとするなら、それで納得がいく。

ごく大雑把な言い方を許していただけるなら、
西洋はおよそ18世紀あたりまで、聖書の二次創作しかしなかった。
絵画、音楽、建築、それらはいずれも聖書から着想を得ている。
もう少し正確にいうなら、聖書を里程標としてそれらは作られてきた。

聖書を楽譜に置き換え、各時代の人々の“演奏”であったといっていい。
その解釈はグールド並に自由で創意工夫に富んだもので、
ときにはこの楽譜を逆さまにして弾いてみた変人“演奏家”もあったが、
しかしいずれにしろ、“楽譜”の存在には変わりがなかった。

ひるがえって現在を見てみよう。
西洋文化を規範としながらも、我々は楽譜に縛られない。
耳で演奏を聴き覚えて、自己流に曲げたり磨いたりしている。
それは楽譜から始めるのとはまったく異なることだ。
生み出されるものはまったく西洋とは異なる色彩を帯びることは確かだ。

では西洋はどうか。彼らもまた楽譜を離れようとしている。
いわゆる前衛は楽譜を離れて遠くへ行く道を模索している。
しかし西洋が自らその基盤たる楽譜を離れようとするとき、
それは盲目で闇の中を手探るようなものだ。
いかなる「山」があるのか、いかなる「目的地」があるのかを
喪い、万に一つの可能性にかけてさ迷い出るようなものだ。

どうだろう?
現代の混迷はここにある程度正しく比喩されているだろうか?


2:
「人」のいない私の物語。

私の物語には人がいないという。
これはどういうことだろう?
思うに人とは、私の中で、近代以降に信じられていたような種類の、
なんとも得体の知れない独立した音源ではない。
経験や素質というもので作り出された音響板を持つ楽器とは思わない。

私は人をそういうものとしては見ない。
私が書く人、捕らえる人は、小説向きではない。
彼らのパンツの銘柄など私は知らない。
好きなタバコの銘柄も、靴のメーカーも知らない。
私が信じるリアリティはそこにはない。

私が知る彼らは音だ。
響き会う旋律だ。しかもおそらくはポリフォニー。
互いに模倣しつつ反発しつつ、いくつかの和音においては重なりつつ、
幻のような、本当にあるかどうかは仮想の中でしか明らかでないような、
そんな線でしか証明できないような存在だ。

これはおそらくこういうことだ。
私は個性なるものを信じない。そんなものはない。
人はそれ自体が複雑なポリフォニーだ。
どの心理的な層も同時に存在する。それらはほとんど互いに脈絡がない。
人は響きだす音色だけで判断されねばならないものではないのか。

そういうわけで、私の物語には「人」がないという言葉は、正しい。
私はただ単に、「人」などいないと思ってる。


3:
少し疲れている。
この仕事をやめるべきかとか思うが、
ほかの仕事はなおさら勤まりそうもない。

義務のように仕事をするということが極めて苦手だ。
上司にとっては使いにくい部下だと思う。
私は自分の楽しみとして仕事をする、自分の喜びとして。


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