- 2005年12月12日(月) 1:あいかわらずグールド/バッハ そんなにも知性的であろうとするのはなぜなのだろう? 演奏というものを、再現芸術以上のものとしたのはグールドの知性だ。 彼は弾いて弾いて、それを聞き、そしてつないだ。 彼の録音を聞いていて感じるこのモノトーンの(私はそう理解する) そしてどこにも一分の隙もない演奏。 彼の独白によれば、彼は引き始めるまでは予断を持たない。 ただ十幾つかのプランを持つだけだ。 そしてそれを試してみる。それを聞き返す。 そこで始めてよしあしがわかるという。 この恐ろしく作業的な知性はなんなんだろう。 表出したもの、表現されたものを他人のように見て切り貼りする彼。 彼にとって個々の演奏は彼の音楽ではない。 聞きなおし、洞察し返され、そのうえでつなぎあわされたものが、 それがグールドの音楽なのだ。 音楽の特異性=再創造/上演芸術をまっこうから否定してないか? 作家がパラグラフを入れ替えたりちょいと語順を入れ替えたり、 そんな音楽家ではないような音楽的知性を何というんだろう? 容赦のなさだとか潔さだとかいうのは違う気がする。 演奏行為を恍惚として自分のために取っておきたいという、 そういう思いのあらわれなのだろうか。そんな逆説なんだろうか。 それだけじゃない。音楽の特異性を否定したところにある音楽の探求。 楽譜を作業に不可欠の道具以上のものにはしなかった彼だ。 この知性は何かに似ている。そうだ、『意識の構造』。 「私は自分が見るという行為をしていることを知っている」 音楽が自ら立ち返って音楽を見る。 つーかこの人、書くものも面白いヨ…。<グレン・グールド著作集1・2 グールドが作ったドキュメンタリー番組、見てみたかったなあ。 2:留保 「あなたは私を好きではないでしょうが」という隠れた留保がある。 これは私の弱音だ。いやらしいところだ。 私はかつて誰かの好意を信じたことがない。これからもないだろう。 誰もあてにはならない。それはジークフリートの恐怖が証明している。 誰もあてにはならない。他者は永遠の他者だ。 誰もあてにはならない。そんなことはわかりきっている、嫌になるほど。 私は冬の深夜に戸外に投げ捨てられた死体ではないのか? 私の目には霜が降りて凍っているのではないのか? 少なくとも私はしばしばそう感じる。たとえば。 グールドのピアノが響くとき。 -
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