- 2005年12月11日(日) 1: グレン・グールドが音楽に(とりわけバッハに)ついて語るとき、その言葉はとりわけ技術的で、詩的な修辞句を欠く。彼にとって美はすでにそれらの解説のうちに自明であって、あえて飾る必要を感じないのであろう。 ここに私はグールドの本質を見る。彼はありのままに語るだけで十分だと考えるような種類の人間で、その「ありのまま」というのが彼の非凡な洞察と個性を経て見られ再構築されたものだということをほとんど意識しない。 彼は、彼自身の繊細さやユーモアを語る必要もないほどに音楽に織り込んだと考えているだろうが、しかし悲しいかな、大方の人間はこれを理解しない。彼にとって楽典などというものは最小限の常識であり、初歩的な作曲と演奏の能力もまた基礎的知識だろうが、聴衆の私はそうではない。もっとも彼がそうした聴衆を無視したのだと考えることもできるのだが。 グスタフ・レオンハルトのチェンバロによる「フーガの技法」を聞いている。端正で崩れないピッチで弾きだされる音楽は確かに上手であろうし、魅力もまたあるが、だが私にはいかにグールドが異質であったのかということを思い起こさせるだけである。レオンハルトの手の下で、チェンバロは確かに特有の硬質なきらめきとともに輝いているのだが、グールドのピアノが音楽そのものの生命のままに歌うようには歌ってはいないのだ。 おそらく、積み重ねられた思索や技量の問題ではない。優劣の問題ですらない。ここにあるのは基本的なスタンスの違いなのだ。グールドがいかに怜悧な言葉で述べようとも、その言葉には写し取られないものだ。この知性の底には、汲むことの難しい魂があり、それはおそらく音楽からなっている。 2: 私は他人が何を言おうと信じも頼りもしないが、 どこか遠くで、私のためにコートを選んでくれている人がいることは、 これはきっと幸福というのに違いない。 だからといって私がそのコートを着るかどうかはまた別だ。 3: ホットカーペットだけではさすがに寒くて、 ちっこいストーブを出した。 冬だなあ。 真冬に戸外に捨てられる死体になりたいと思うことがある。 見開いた目は、朝には霜で凍ってる。きっと。 大気と同じ温度になるというのは、きっと面白いことだろう。 -
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