終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年11月30日(水)

 暗闇の中に手を伸ばした。血にぬめるなにかが触れる。探ればそれは顔と知れた。成果を知ろうと焦りと不安と早鐘を打つ鼓動のまま探る。額、鼻、目、口――。びくりとマルチェロは体を震わせた。指に触れたのは濡れた毛房、髭だ。髭。よく知る形がまざまざと脳裏に浮かぶ。まさか、まさか―。
「……」
 思考の停止した耳を打つのはすすり泣く声だ。声。誰の。泣いているのは。ダニエルだ。それでは、死んでいるのは。マルチェロが殺したのは。
「校、長…?」
 そうに違いなかった。その呟きと同時にダニエルの悲鳴が耳を灼き、弾かれたようにマルチェロは走り始めた。闇の中を、速く、速く。逃げたわけではない、そんな思案など追いつかないほどの動揺だ。いかなる表情記号も速度記号もあらわしえぬほど速く激しく混迷して物狂おしく、それはいかなる音楽より沈黙に似ている。マルチェロは叫びもせず、ナイフを握ったままの拳を開くことさえ思いつかず、ただただひたすらに走った。この夜のなんという暗さ。なんという果てのなさ。取り返しのつかない線が背後に引かれていることがわかる。引いたのは右手のナイフだ。
 恐ろしい死体の記憶が稲妻のようにマルチェロを打つ。ぽっかりとあいていた口、見開いたままの目、人間の温度を逸しつつある体。耳に蘇るの血が詰まりごぼごぼと鳴る喉、がさがさと床を掻く爪。傷口から噴出す血の高い響きと顔に散ったぬるい温度、弱々しい苦呻と痙攣。こと切れた死体がうつむいてごろりと…ひどく物質めいた音が。
(わたしが殺した)
 突如として膝から力が失せた。殺した。殺した。殺人だ。校長、あの威厳のある白い髭と髪と眉。オディロと並べば一層の長身に見えた。笑うことは少なく厳しく規律を重んじ…。
(わたしが殺した!)
 したたか地面に体を打ち付けて、マルチェロは低い声を漏らした。どこかが切れたのか、口の中に血の味が流れ込む。あの老人は死んだ、殺されて、苦しんで、死んだ。殺したのは右手の刃。
「――ち、が…」
 殺したかったのは校長ではない。あの男だ、あの男、再びマルチェロから一切を奪うために過去の暗がりから立ち現れたあの男だ。だがこの手が確かめたのは死んだ校長の顔だった、この手を濡らしたのは校長の血だった。
「――」
 なぜここはこれほど暗いのだろう? マルチェロは悲鳴を食い殺して顔を上げた。はるかに遠くにちらちらと瞬く光はあるが、それはあまりに遠すぎる。右手のナイフが引いた線はいまは夜の大海ほども暗く広く横たわっているのか。救いもなく。だが、この朝には光の中にいたのに。朝には。


 朝には? 朝には、マルチェロは普段よりも緊張して指揮台に上った。そうであって少しも不思議はない。この日のカンタータは彼が初めて作ったものだった。聖歌隊とオーケストラの練習も彼が見たのだ。言ってみれば、このミサは少なくとも音楽の面では、マルチェロ一人が責任を持つべきものだった。
 マルチェロはちらりと客席を見た。この日ばかり、オディロと校長は並んで最前列に座っている。左右には着飾った貴族たち。座席は後ろの方まで、ずっと埋まっている。ウインクを一つ飛ばしてきたオディロに頷き返しながら、マルチェロは考えた。たった一つだけ残念なことは、母上が今日、来られなかったことだ。十七歳、学校に在学しながら作曲と指揮を任された者は初めてだと校長が言ったことを思い出す。
 だがそれも指揮棒を上げるまでのことだ。誘い出されたのは甘やかな弦のうた。コラールは神への曇りなき信頼を語る。我らはあなたの苦しみと血によって悪より贖われ、清いものとされた。それゆえ我らはただひとすじにあなたを信じる。あなたを求める。続くのはテノールの朗誦。我らは弱く、幼く、罪に惑う。だがこの心に言い聞かせよう、主を離れるなと。
 続くパートでは合唱隊は沈黙する。代わって管と弦が主題を噛み締めるように繰り返し、心に染み入るような変奏のうちに問い返し、揺り返す。内なる決意を確かめるように。そしてマルチェロは静かにソプラノを促した。明るい信頼と、己が心に向けた決意のアリアが輝く糸のように歌いつむがれる。最後は再び、コラール。全ての声が目覚めて、歌う。通奏低音に支えられた確固とした歩みは、光の中に歩みだすものの強さと清さ―。
 そっと、マルチェロは右手を閉じて、すべての音の終わりを告げた。オーケストラは手足のごとく合図に従い、音楽は余韻を残しつつ消え去った。肩からすうと力が抜ける。背後に湧き上がった拍手に振り返ると、天窓から降り注ぐ光が視界を包んだ。めまいのするほどの明るさに思わず目を閉じる。その一瞬だけ、マルチェロは身内に溢れた曇りない幸福な充実感に身を委ねた。

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音楽家兄版「暗い日曜日」。
続くかな、多分。というかコレで終わったらなんだそれ、ですね。

人殺しのマルチェロ。殺されるのはやっぱり校長=法皇。
あ、ノットパラレルでまだ書いていないことに
気づいた。いや、日記では書いたっけ?
大事なところなのになあ。だめだなあ。書かないと。
私の文章はそのまま私の思想だなあ。

安西先生、エロい話が書きたいです…。
全球凍結の話も書きたいです。
エディアカラ動物群の話が書きたいです。
地底洞窟の嫌気生物の話が書きたいです。
あの硫黄の、イエロー・ローズ。
光を知らない薔薇、人間が見ることのない視界。
小説ってさ、見えないものを見えるように書けるからいいんだよね。

ピアノを始めるにあたって選ぶべきバッハの曲はなんだろう。
切実に情報求ム。


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