- 2005年11月11日(金) 評論家の福田和也が毎日新聞に面白いことを書いていた。 『近代文学は終わったのか』ということを、 ・独創性 ・再現性 ・思想性 の三つの点から考察していた。 独創性については、これは二十世紀初めからその意義が低下し、引用へと重点が移行した、と記されている。 とすれば現代においては、原型や典型というものが研究し尽くされている現代においては、どのような作品も、模倣やアレンジメントやバリエーションやパロディであることを免れまい。しかし望んで模倣であり、パロディであるとき、それはむしろ模倣への意志、パロディへの意志において独創であると言うわけにはいくまいか。 再現性については、戯曲でも絵でも音楽でも表現し尽くせない近代人の複雑な社会とその内面性の描写というものが、小説の真髄であったとされている。しかし、インターネットがこれだけ氾濫する現在、この手法はどこまで有効なのだろうかと問い返してもいる。 私はそうは思わない。心理の叙述はフィクションだれノンフィクションであれ、文学の負うべき主流であることをまだやめていない。他人の思考回路や他人の視界にこうも鮮やかに入り込める手段は他にない。映画でさえもこうはいかないのは、やはり文字の力、呪力か。文学を欠いては、その教養を通じて得る多面的な世界を欠いては、むしろ現在の人間は社会生活を営むことができないのではないかとさえ思える。 思想性については、イデオロギーそのものが意味を失いつつあるとしている。これはもはや縮小ではなく蒸発であろうとも。 どうなのだろうか。思想そのものはもはや現代社会に存在しないのではないだろうか、あるいは望ましいとみなされなくなっているのではないかと思うことはある。だがどうだろう。思想、メッセージはプロパガンダそのものではない。裏返していえば、どのような文章も思想は持たずはいられない。なぜなら文章、表現とは、思想のあらわれであるから。 福田和也の話は面白いが、かほどに私は逆を見る。 ---------------------------------------------- 私はよく、物語の登場人物を通じて思考を進めたり、実験したりするが、そうした結果を、できる限り抽象的な思考にまとめる労を必ずとりたいと思っている。理由は一つだ。それは一つの訓練である。抽象的な概念を具象と結びつける努力を欠けば、思考は偏る。ありったけの用語を使って、中心的な思想、抽象的で透き通った話法を見に引き寄せなくてはならない。 そうした訓練を怠れば、私は少しずつ端から溶けてしまう。 -
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