終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年11月08日(火)

 宮廷の夜は遅く、だがその夜も更けた。楽長はとうに辞し、王はフルートを手に座り、だが弾く気もなくてもてあそぶばかり。クラヴィーアの前の若い楽士を残して部屋にはもう誰も残っていない。王がそう命じたからだ。
「エマヌエル、おまえの父親の話をしよう」
 雑談の種も尽き、王はとうとう口火を切った。若い楽士は顔を上げ、王の顔をまじまじと見た。王はかすかに笑ってワインのグラスを引き寄せた。
「まず聞かせてくれ。お前の育った家と、お前の見た楽長殿のお人柄をな」
 若い楽士も勧められてグラスを手に取る。若さも手伝ってかそれほど人見知りをする性質でもない。それにもう、今夜の飲酒量もそれなりだ。
「家族は多いのです。父の先妻は四人、後妻の母も十三人の子供を生みました。成人したのは半数でございますが」
「よくあることだ、小さな墓が並ぶのは痛々しいものだ」
「さようです。それでもおおむね、我が家は陽気で幸福でした。とりわけ幼いころには。父は新しい楽しい子供向けの歌をしばしば作り、私たちは競って覚え、家族全員が歌い笑いさざめきながら夕べを過ごしたものです。父はあれでなかなかに陽気な性質なのです、子供好きで。私たちが騒ぎ歌い回るなかを、にこにこしながら、五線譜を山にして作曲していたものです」
「私もそのような家に生まれたかったものだ」
 王は頷いて、傍らのカウチに移ると、横たわった。手には子供の玩具のようにフルートを持ったまま。軍事を好む父王の厳しさは、青年時代の王から音楽をほとんど奪い、また親友をも奪った。その斬首の風景を見ねばならなかった苦痛が胸をよぎった。王は天井の鏡を見た。
「まことに、幸福な家でした。父の音楽の弟子たちが出入りし、聖トマス学校の少年たちが出入りし、食べ盛りの大勢の腕白どものために母と上の姉のドロテーアはいつもてんてこまいしていたものです。音楽と笑いは絶えず」
 転調を告げるように寂しい和音が静かに響いた。
「最初に気づいたのは長男のフリーデマンのことです。兄は父の最愛の弟子でした。また他のどの弟子よりも兄は父に傾倒し、その音楽を愛していました。愛して…。愛しすぎたのです。父は兄がひとり立ちできるよう職を見つけました。兄もまた父に応えるため旅立ちました。ですがそれが兄を不幸にしました。その次はかわいそうなドロテーア。誰とも結婚しようとせず、我が家を離れようとしなかったドロテーア。父は姉にはそれを許しましたが、それもまた苦痛に満ちたことではなかったかと、私は姉のために心苦しく思います…」
 王は黙って聞いていた。天井の鏡に映る若い楽士の顔は見えず、黒い鍵盤の上をゆっくりと移ってゆく様子ばかりが見て取れた。
「父は親切で、誠実で、敬虔です。父の家で育った子供であれば、愛し、尊敬せずにはいられません。同時に音楽において偉大です。父の子であればこそわかってしまうのです。音楽において父を超えるなど思いもよらないということが。私も兄も父を愛し、尊敬し、離れがたく、同時に傍らにいれば身を切るような悲しみを覚えずにはおれません。可愛そうなドロテーアがどれだけ妻としてゆるぎなく父に求められ、父を愛する母を羨んでいたか…」
 寂しい音色は、はたと止んだ。
「『楽長の小さい子供たち』のままでいさせてくださいと、私が幼いころ、どれほど望んだかしれません。父はよく私を膝の上に抱き上げてくれました。まだ五度にも届かなかった私の指を取ってクラヴィーアの鍵盤に置き、『私たちの血は音楽と分かちがたく結びついているのだよ、さあ、挨拶をおし。おまえが生涯にわたって学び、開こうと試み続けるべき神さまの扉がここにあるのだよ』。そう語りかけてくれたことを忘れることはできません。クリスマスに、復活祭に、また日曜ごとに、父の歌は教会を満たし、その深さを年毎に理解するに至って、あまりの複雑さ精緻さ、その彼方にある永遠への憧憬に圧倒されたこと…。陛下、このような父親を持つことは幸福か不幸か。私には判断がつきかねます」
「――まことに」
 王は呟いた。あの瞳ばかり青く老いた男はそうした子供たちの葛藤に気づいただろうか? おそらくは気づいただろう。だがどのようにできただろう。それはまったく楽長の罪ではない。だが不幸になってゆく子どもたちの様子は楽長を苦しめただろう。誰一人そうしようとは思わなかったにも関わらず。楽長はその苦しみを抱いて神に祈り、その音楽はいよいよ、この世のものならぬ洞察力と深みを得ただろう。その音楽を聴いて、子供たちはなおさらに苦しんだかもしれない。
「エマヌエル」
「はい」
「それでもお前も、お前の兄弟たちも、父親を取り替えたいなどとは思いもせんのだろう?」
「露ほども」
「潔いな」
 王は体を起こし、大仰なかつらを外すと傍らに投げた。かさでは人工のそれに劣るが見事な金髪の、形の良い頭があらわになる。鍵盤を見ている向き直った楽士がかすかに微笑した。それは傷ましいほどの穏やかさを持っている。
「イェーナで死んだ下の兄だとて、同じことを言ったでしょう」
「そうか」
 王は立ち上がって、楽士の肩の上に手を置いた。
「エマヌエル、私はお前の父親、あの楽長に惚れたぞ」
「陛下?」
 驚きで跳ね上がった楽手に、声を上げて笑う。
「そうそう剥きになるな、妙な意味ではない。私は王だぞ?」
「そして私は陛下の音楽と悪癖の友ですな」
「しっ、誰が聞いているかわからん」
「周知のことでございましょう。知らぬはイギリスの奥方ばかり」
「イギリスにいてくれてよかったよ」
「ろくなことをおっしゃいませぬ」
「いやまったくだ、あの牝牛…」
 ここに至って王と楽手はそろって吹き出した。話題に上がったご夫人は、もちろん政略結婚で王妃となったのだが、結婚式以来、領内ではついぞ姿が見られたことがない。最近は少々太ったとは、風の噂だ。
「陛下」
 首筋に口付けを落とされて身じろぎした楽手が言った。
「ニ長調の明るいのをやってくれ。このあいだから練習している曲だ」
「いえ、お待ち下さい。その前に父のことを」
 王は笑って楽手の肩越しに手を伸ばし、鍵盤を一つ叩いた。
「月光も霧もこの手にはつかめぬ。楽長は明日、教会での演奏会の後にもう一度宮廷に表敬訪問を行い、私の伴奏を勤める。明後日には都を発って、かねてから申し出のあった東の町の新しいコンサートホールを見物して…」
「それで?」
「後は知らぬ。家に帰るだろう。懐かしの我が家に」
 急に黙った楽手の肩をひとつ叩いて王は立ち上がり、フルートを手に取った。その指に触れたのは楽長の唇だ。もう少し自分が若ければ、と王は考える。恋に落ちたと思うところだが、残念ながら私もそれなりに年を取った。この思いが恋ではないことは知っている。これはただの…憧れだ。太陽や月や空を流れる雲を思うようなものだ。
「さあ、エマヌエル。弾いてくれ。弾いてくれれば明日と明後日は休暇をやろう。父親について歩いてこい」
 視線をやると、俄然元気付いた楽手が最初の音を引き出すべく鍵盤の上に指を置くところ。王はフルートを引き寄せた。
 夜半の二重奏は静かに流れ始めた。




楽長をとりっこする楽長家の娘と息子で計17人。
楽長(65)をとりっこする陛下(35)と三男(30)。
楽長の奥さんは天然でないと勤まらないな!

音楽を愛すること=楽長を愛することなので、アイドルです。
というわけで、このネタはおしまい。
くれぐれも、バロックの子沢山大作曲家の話じゃありません。捏造ですから。


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