終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年10月05日(水)

 文化が富の集積であるということを、これほど切に感じたことはない。

 栃木市に行ってきた。
 簡単に説明すると、栃木市というのは、江戸から昭和初期にかけて栄えた商都であった。というのは、この町には巴波川(うずまがわ)という川が流れていて、巴波川は渡良瀬川に、渡良瀬川は利根川に流れ込んで、つまりは江戸につながっていた。で、当時の運送ルートはもっぱら水路だったから、栃木は江戸と北関東の重要な物流中継地点だったのである。
 こうした条件から、栃木では卸問屋が軒を連ねた。豪商が生まれ、独特の文化が生まれた。現在もその名残を見ることができるが、それはまったく、豪華絢爛たるもので、金持ちだの成金だのの道楽などといういうレベルではない。生活の隅々まで美意識と一定の文化様式で貫かれ、そこでは豪商というものが、そのまま、一つの文化のありようだったのである。

 それで、文化が富の蓄積であるということについてである。
 商家とは、きわめて活動的なものである。その活発さは、貴族と異なり、本質的なのだ。彼らは活動し、額に汗し、稼ぐ。しかもその稼ぐという事はきわめて広い範囲に及び、発想の自由さと柔軟さを要求すると同時に、信用性の確保といったものに代表される保守性を重要とする一面をも持つ。
 彼らの文化もまたそうして相矛盾する躍動すのものだ。そして、豪商ともなればその生活は富に裏打ちされた一つの文化そのものとなる。
 それはまったく、富と、富の追求というこの二つを欠いては理解しえないものだ。主人と家族、奥女中、表女中、番頭、郎党、小僧に至るまで、その人間関係はピラミッド型に整然としており、しかも流動性を有する。彼らの舞台は家と商店だ。その隅々までが、舞台なのだ。春夏秋冬の始末、正月、節句、慶弔、朝夕の所作に至るまで。歌を覚え、踊りを覚え、作法を覚え、茶を花を習う。それが文化でなくて何か。

 それこそが文化なのだ。生活そのものが。ひるがえって、私の祖先は両側とも水呑み百姓であった。彼らに美しい打掛や緞子の着物やサンゴの笄は、そんなものは無縁であった。春夏秋冬も節句も簡素であっただろう。
 彼らは富など持たず、富の追求などしたこともなく、かっつかっつ暮らしていた。家に伝わる文書がないのは彼らが字を読めなかったからだ。朝昼夕方を働きづめに働くことのどこに文化を入れる余地があるか。いや、それはそれで文化ではあった。人間が生きるところに文化がないはずはない。私は古い鍬や鎌を知っている。それは激しい労働に使い減らされ、しかも美しかった。鍬や鎌を用いることもまた文化なのだ。土を練って道祖神をこしらえ、年にいちど、きれいな色の千代紙で服を作ってやることと同じだ。私の祖先はみんな、そうして生きて死んだ。
 それに、隣組もあった。生活は造形的なピラミッドなどというようなものではなく、また関係性においても組み合わせは限られていたが、それもまた文化であった。造形的で人工的な人間の関係性が生み出すまばゆい文化は無縁のものだったとはいえ。

 さて、別に差別だの階級闘争だのを言い出すつもりはない。文化というものが不平等と富の集積の上にしかないものであるということを認めたうえでもういちど現在を見渡したら、何が見えるだろう?
 音大に入るにはやはり金がかかるという。芸術は金がかかる。それは確かに昔の通りだ。しかし庶民でさえ子供を音大に入れることはできる。反面、政治家でさえコンビニでパンを買う。金や権力の集積が文化様式の創出にはつながらない。つながっていない。これはいったいどういうことか。
 富を持つものが責任を果たしていないのではないかと私は疑う。持たざるものが自らの分を越えようとするのはままあることだし悪くはない。しかし富の集積がもはや何も生み出さないなら、文化を、華麗で憧れに値する生活を生み出さないなら、その金持ちは責めを負うべきではないのか。

 今の日本には真の文化がない。などとはいわない。なにか文化らしいものはあるし、それも誰もが、金持ちもそうでないものも手に届く文化らしいものがある。それはいい。だが金持ちは何をしているのだ?
 彼らはその金を使う義務があるのではないか? 富の集積だけが生み出しうるもの、文化を生み出し育てるべきではないのか? だがそうはなっていない。これは、古臭くカビの生えたマルクスよりもよほどの問題だ。


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