終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年10月06日(木)

 チェリスト・鈴木秀美のコンサートに行ってきた。もちろん仕事だったのだが、ともあれ素晴らしい演奏を生で聞けたことには変わりない。
 演目はJSバッハ「無伴奏チェロ組曲」1、2、6番。最初の2曲についてはガット弦を張ったアマティのチェロで、最後の1曲についてはチェロ・ピッコロ、5弦の楽器で。どちらもたいそう古い楽器だ。
 演奏はこんなふうに始まった。観客席より一段だけ高くなっている舞台には椅子が一つと燭台が一つきり置かれていた。会場は大谷石で、長いあいだ蔵として使われていた、天井の高い空間だ。さて、時刻は七時を過ぎた。中2階の楽屋から下りてきた演奏者は飴色の大きな不思議な形の楽器を持って舞台に上がり、おもむろに弓を構える。その瞬間に、楽器は歌い始めた。
 そうだ、楽器は歌い始めた。だがなんという歌だったことか。回想は不可能だ。私にできるのはただ拙くたどるだけだ。ああ、こんなふうに。
 楽器は歌った。たとえば細く華麗な囁き、たとえば一気に三本もの弦から重厚な和音を放ち、たとえば台形の弓は鋭く動いて鮮やかな旋律を描き出した。前奏曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、転じてメヌエット、しまいに軽やかなジーグ。そこでようやく奏者は弓を置いた。
 幕間はごく穏やかに始まった。奏者は楽しく話し、聴衆もまた楽しく聞いた。いわく、バロックの音楽は囁くように語り、強調にあたっては声を大にすることよりも言葉を選ぶことを好む。いわく、古楽器とは茫漠としすぎているからむしろオリジナル楽器、作曲者が想定した楽器と呼んで欲しい。
 だが私は聞きながら、なんと少ないことしか語られないのかと違和感をさえ感じていた。そうだ、彼は確かに奏者だった。彼はむしろチェロによって声を得て歌うのだ。彼の喉などというものは、添え物にすぎない。
 そして二幕。少し冷えすぎるくらいに温度を抑えた空間は音をよく透し、チェロはなおいっそう豊かに歌った。私はあの最後の一音に憧れる。だが、正しく回想しようとすればそれはかなわぬことなのだ。問いかけるように始まる前奏曲、私の横の老婦人がカザルスを思い出すと囁いた。私たちは音楽の中に座し、木漏れ陽の木を仰ぐようにまたその涼しい木陰を感じるように音楽を感じていた。音は、歌は、豊かに軽やかに、ときに深甚な悲しみを帯びて語りかけ、走りぬけ、だが私はそれを言葉に直す術を持たない。
 そして、そのあとのことは私の拙い言葉では繰り返しになるだけだ。私はただ悲しいほどに満たされた気分でホールを出て、あの時間、あの歌とはなんだったのだろうかと繰り返し繰り返し問うことしかできなかった。


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