終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年09月28日(水)

1:
ソプラノのアリア49「愛よりして我が救い主は死にたまわんとす」から
福音史家の短い緊迫したレチタティーヴォを経て、
群衆の次第に先鋭化する二重唱「十字架につくべし」の叫び、
恐るべき合唱「その血(の責)は我らと我らの子孫に帰すべし」へ。

この転換が、恐ろしい。

アリアを歌うソプラノもイエスを歌うバスも、合唱には参加する。
これは一つの恐ろしい戯画ではないのか。
罪を恐れ救い主を希う歌をうたう人間が同じ口で救い主を求める。
これはいったい、恐るべき現実の写し絵、ありのままの相克ではないのか。
この恐るべき真実に思い至らぬ人間はいるまい。


2:
ユダを放逐してはならないのではないか。
その罪が重ければ重いほど我らの間から放逐してはならないのではないか。
その罪をこそ我らのものとしなければならないのではないか。

「われらになんの関わりあらんや」

そう問い返し、ユダを放逐した瞬間に、まさにその瞬間に、
再び裏切りは行われ、再び三十枚の銀貨は散らばり、
再び偽りの裁きの幕が開き、再び「バラバ」の叫びは響き、
再びすべての悪は立ち返ってキリストを殺すのではないのか。
キリストはそのように殺され続けてきたのではないのか。


3:
「我に返せ、我がイエスをば」

救済は。許しは。
このように求められ、このように切実に求められ、
このように請われるものではないのか。

「我がイエス」、「私の救い主」だけが常に存在しうるすべてであり、
万人のものなる救いとは存在しないのではないか。
神が救い主がたとえば万人のために存在したとしても、
罪と許しとは常に究極的に個人的なものではないのか。

救いを求める切実な思いを私は知るし、それがあると信じもするが
しかしそれが与えられうるものなのかどうか、私は知らない。
困った話だ。それに、ほら。
『魂の話をするときに三人称で話すとは奇妙なことだ』


4:
なんだってユダはゲッセマネでキリストにキスをかましたのか。
あのキスはなんだったのか。
リリスのキスのごとく有毒で、リュドミラの抱擁のごとく致命的な、
あのキスはなんだったのか。

キリストはなぜユダのキスを受けたのか。
そして言ったのか「友よ、なぜ来たのか」と。
キリストにとってあのキスはただ運命ではなかった。
ではなんだったのだ、ユダのキス、それはなんだったのか。

ユダはなぜキスという形をとってカヤパたちにキリストを示したのか。
あるいは愛によってしか、愛の様式によってしか、
キリストは捉え得ず、識ることのできないものだったのか?
愛に満てる救い主、キリストとは。

あるいはあのキスによってキリストはキリストとなったのか。
確かに、そのキスがイエスを救い主としたのではある。
それは逆転の発想ではある。だが同時に真実らしくもある。
愛なる救い主なれば。


せんせーつかれたー。おれきょうやすみー(たい)。


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