終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年09月08日(木)

『マタイ受難曲』(カラヤン指揮、ベルリン・フィル)
リヒター版に比べるとあんまり評判のよくない巨匠の一枚。
技術的なことはよくわからないが、素晴らしかった。
ゲッセマネにおけるイエス捕縛の二重唱など鳥肌ものだ。

ただ、最初にこの版を聞いたら、多分、感動はしなかった。
というのは、極めて水準の高い演奏と歌で、それは疑う余地はないのだが、
ただそれはあくまで舞台芸術としてのレベルの高さ、センスの良さである。
リヒター版で諸所、訴えかけてくる痛切さ、問いかけざるを得ない魂の声は
そこでは上手さにまぎれてあんまりよく見えてこない。

たとえばユダのアリアについて、リヒター版では取り落とされていた
いくつかの陰影、表情、ニュアンスというものをこの版で私は見出したが、
しかしそれは音楽を複雑で豊かで美しいものとはしたものの、
魂の切迫、自ら救いを求める者の音楽の持つべき顔ではない。
それはあらゆるコラール、あらゆるアリアでもいえることだ。
技術的に素晴らしいぶんだけ、毛嫌いする人が多いのはわかる。

二枚目としてはまあでもよかったんじゃないかな。
ところで、次はレオンハルト指揮でバッハ当時の楽器を使った
一枚を聞かなくてはいけないようだ。


『マタイ受難曲』(東京書籍、磯山雅)
知りたかったことのさわりがだいたい解説されてあって助かった。
バッハに至るまでに受難曲の起こりと流れ、伝統と、
成立年代や影響を与えたと思しい蔵書の研究。
内容と歌詞と思想を音楽的に分析した詳細。

ざっと見ただけだから、あと二回くらいは読まないといかんだろう。
しかしこれから進むべき方向を得ることができた。良い本だ。
長調と短調の違いくらいわかるように音楽辞典も手に入れるべきだな。
あと、ルター派の著作を読まないとー読まないとー。

プロテスタントという人間の系列を丸ごと理解しろというのかバッハ…。
そんなことも知らない私が悪いんだけどさ…。
まあいいや、今は待ちの仕事が多いしな。


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 礼拝は佳境だ。会堂は満場の盛況で、会衆と修道士と騎士が整然と並んでいた。壇上にはマルチェロが白衣をまとって立ち、重々しい革表紙の聖典を開いて、深みのある声で聖句を読み上げている。
 マルチェロの独誦はいつだって俺に耐えられないような思いをさせる、とククールは考える。ある種の豊かな拍子が内在し、単調と装おうとして絶えず感動がそれを裏切る。目を閉じて聞けばその響きは複数の旋律が絡み合って頭上高く伸び上がって明るい風景を織り成していくようでもあり、深く静かでしかも身を切られるような痛切な思いに沈んでいくようでもある。
 どうして、とククールは考える。この独誦を聞いて、みんなそんな平気な顔をしていられるというのだろう。この真摯で満身創痍の魂の隠すべくもない音と響きを聞いて身じろぎもせずにいられるのだろう。身をよじり涙を流してこの男を哀れまずにいられるのだろう。ああ、自明のことなのに。
 そうだ、ククールには自明であった。マルチェロの声がいつも立ち止まり深く思いをめぐらせるようにためらうのは、福音のうちいかなる物語であったか。そのめぐる思いが続く物語の大河のうちをどのようにさまよい、どのように救いを求め、また確信なく苦しげに言葉を結ぶか。だが奇妙なことに、会衆はもとより修道僧たち、騎士たちにとってはそうではない。
 マルチェロは知らず、ククールも気づかないことではあったが、それはつまりこういうことであった。席の遠さ、各々の抱く思いの暗さに関わらず、ククール一人がマルチェロを理解する。だが逆はそうではない。
 ククールは黙って堅い木の椅子に座り、静かに祈っている。どうか兄の魂に安らぎが降り、神の愛がもたらされてその思いを明るくするようにと。


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