終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年09月09日(金)

 朝の光は南に面した団長室の窓から斜めに射して、大きな木の机の後ろに座って書き物をしているマルチェロを照らしている。影になった顔の表情は知れない。ククールは入ってきた扉の前に立って、ひとつ踵を鳴らした。
「―わかっている」
 顔を上げもせずにマルチェロは短く言い捨て、そのまま右手を動かし続けた。羽根ペンが紙の表面を走る乾いた音ばかりが聞こえ、ククールは半ば退屈し半ば感慨に駆られて兄の部屋を見回した。粗末といってもいい石造りの部屋。整然たる書棚、頑丈で美しいがインク壷とさらに紙よりほか何一つない書机、青布の向こうにはそっけない寝台が一つあるだけ。平の修道僧の部屋だってもう少し生活のにおいはする。この部屋に入るたびに、ククールはいつも思ったものだ。栄誉ある聖堂騎士団長は、たった一夜この部屋を借りた旅人のように明日には出て行く者のように、自分の印を徹底して排している、と。
 だがこの日、出て行くのはククールであった。壁に貼られていたたった一つのマルチェロの痕跡、この部屋の中でその意志と想いを映じたたった一つ欠片はもうはがされて今はそこにない。もう半時もすれば旅の仲間は支度を終える。白い馬に引かれた馬車とともに、ククールも行くのだ。
「待たせたな」
 向き直ると、マルチェロがペンを置いたところだった。インクで汚すことのない手が組み合わされ、冷ややかな緑の目が見据えてくる。額に巻かれた白布は痛々しく、青ざめた頬は斜めの光の中で暗い。ククールは姿勢を正した。
「先ほど命じたとおりだ。聖堂騎士団員ククール、旅人たちとともに行き院長を殺害した道化ドルマゲスを討て。世界に起きていることを見極めよ」
 追放とは一言も言われなかったにもかかわらず、それは追放の合図であり、その文言であった。ククールは斧の一撃を受け止めるよう樹木のように静かに命令を聞いた。苦痛に耐えるためにわずかに頭を傾げはしたが。
「異議なくば忠誠と信仰の誓言に従って行くがいい」
 温度のない声だとククールは思う。あれほど彼我のあいだに複雑にからみあっていた糸は、朝の光の中で幻であったかのように見当たらない、最初からなかったもののよう。光は壁面の石を照らし、その細かな陰影を塗りつぶしている。窓の外には噴水の中庭がある。
「聖堂騎士団員ククール」
 促す声音と床に引きずった椅子の音に意識を引き戻されて、ククールは立ち上がった兄を見た。別離を前にした奇妙な感情に押されて前へと進む。兄はといえば眉間に刻んだ皺を深くしたきり、その視線は沈黙のうちに逸れた。
「御言葉のままに生きまた死なん。従うはまこと我が魂の喜びなれば」
ほとんど意識することなくかすれた言葉で呟いたのは、最初に騎士衣を身につけたその日にたどたどしく口にした言葉、入団者の誓言だ。
「誓いを果たします。誓いを果たします―、団長」
「では行け」
 世界地図をはがされた壁を見つめたままで投げられた言葉はすでに嫌悪を滲ませ始めている。だがまだ。まだだ。ククールは兄の足元に膝をついた。
「……」
 マルチェロはかすかに身じろぎした。だが何も言わない。視線も。ククールはこちらを見ない顔を見上げて待った。そうだ、それは典礼で定められたことだ。任務につく騎士に対し、団長がその手に接吻を許すのは。そしてマルチェロが団長の名において命じた言葉にククールは騎士として誓ったではないか。
 ククールは唇を噛み締めてただ待った。沈黙はどれだけ長かったのか。もうほとんど諦めかけた目の前に無造作に手が差し伸べられた。震える手で引き寄せ、唇を寄せる。ほんの触れるか触れぬか。手はすぐに取り去られた。
「命令を果たすまでは帰るな」
 もはや行けとも言わず、騎士団長の青い衣は遠ざかっていく。一人残されたククールは兄の手に触れた己が手を見る。やがて視界はぼやけて涙が落ちた。

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あんまり素敵でもったいなくて、
後半を聞くのに躊躇中のレオンハルト「マタイ受難曲」。
ヴィオラ・ダ・ガンバの豊かな響き、
トラヴェルソ(木管フルート)の馥郁たる香気、
すべてを圧して響き渡るオルガンのその強い力感。
そしてボーイソプラノとカウンターテナーのつむぐコラールの清涼さ。

素晴らしい。
たとえボーイソプラノにやや力強さが欠けていても、
凄みというか迫力よりも規律正しさや端正さが優先されていても。
ああ先聞きたい。でももったいないのようぅううう…。


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