終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年09月05日(月)

「われに返せ、わがイエスをば!
 見よ、人殺しの報酬とて受けし金を、
 迷い出でし放蕩息子は汝らの
 足元に投げいだせり。
 われに返せ、わがイエスをば!」
      『マタイ受難曲』アリア51より


一昨日分の元ネタ。
バスとバイオリン・ソロ、そしてゲネラル・バスが歌う。
自由なダ・カーポと繰り返しがこの短い詩句に深みと悲しみと、
そして思いがけないほどの明るさを付与する。

ユダを単に裏切り者とせず、
「放蕩息子」として、しかも悔悟した「放蕩息子」として描いたところに
この物語の、むしろバッハの重厚な人間性がある。

いかなる人も罪を犯しうるという自覚と、
すべての罪を「己」に引き寄せ、
しかも神は許したもうという確固たる確信に満ちている。

悲しいまでのゆるぎなさと、自らを低くする偽りない謙譲の明るさ。
それがバッハという樹木の芯ではないか。
そのすべての花ではないか。

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『ヒットラー〜最期の12日間〜』を見た。

あと一時間は短くできたと思う。
あれはナチ内部の人間の末路に絞るべきであって、
周辺の人々が群像でよいのである。
余計な希望だの人情だのいれずに自殺しまくるナチどもばっかでいい。

冒頭の部分もいらないし、ばーさんの教訓じみた一人語りもいらない。
あんなのは物語をして語らせればいいのだ。
そしてスタッフロールではなぜヒトラー夫妻について供述がないのか。
きわめて不満である。

しかしそんなのは瑣末なことである。
ナチスに対して思考停止を長らく強いられてきたドイツ人が、
「あの戦争とは何だったのか」「彼ら=われらとは何だったのか」という
その問いかけを行った。重要なのはそちらの方だ。

ヒトラーとは、ヒトラーの政権とは、ヒトラーのドイツとは、
それは何でありどのようなものだったのか?
人間の地平で、そして「我ら」の地平でそれが問われる。
それこそ画期的というものだ。もっとも日本人たる私からは遠いが。

だが聞こえてくる問いかけの真実の深さ。
その苦渋と真摯さ。ニュルンベルク裁判のような外からの裁きではなく、
彼ら自身による彼ら自身のための、彼ら自身の裁き。
ドイツはようやく戦後を終えた。私はそう思う。


翻って我ら日本人はどうか。
このようにはっきりと問いかけ問い直したことがあるか。
あるはずがない。天皇家はいまだにタブーだ。
あの一族に問いかけ、あの一族の苦しみを描くことを除いて、
いったいどうやって「あの戦争」を過去にできよう。

誰かが天皇家に問いかけ、取材し、その日々を生々しく描かなければ、
真実を洗い出し、彼ら=われらが誰であったかを直視しなければ、
「あの戦争」は強いられた忘却のように我らの前にまた背後に立って、
亡霊のようについてくるだろう。いついつまでも。

我らはまだ「戦後」にいる。
政府が何といおうと、また歳月がどれだけ経とうと、
それでどうにかなるものではない。
過去は回想されることを要求するのだ。要請するのだ。

そうだ、鎮魂されるために。過去となるために。


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