- 2005年08月03日(水) 4:キノコバエ エアーコンディショナーに抱き合わせで設置された計測器は、基準よりもいくらか濃い有毒ガスが周囲に立ち込めていると告げていた。ビートルAを駐車場に止めて、私は助手席をのぞきこんだ。臨月を迎えた妻はうとうとと眠っている。東京を出て2時間になる。慣れない長旅に疲れたのだろう。 妻を起こすのはやめて、私はガスマスクをつけて車を下りた。パーキングエリアの売店で、眠気覚ましのコーヒーを買うつもりだった。 『―この昆虫を見てください。きわめて小型のハエの仲間ですが、いっぷう変わった性質を備えています』 PAの売店は完全に無人化されて、無愛想に並んだ自動販売機で飲み物と軽食が売られているばかりだ。落ち葉は扉の前にまたって腐り、客もなく、聞こえるのはテレビのアナウンサーの声と空気清浄機のうなりだけだ。私は自動販売機の一つのまえに立って、コインを投げ入れた。 『成虫のハエはある種のキノコに産卵します。生まれた幼虫はこのキノコを食べて成長しますが、食物が十分にあるうちは雌だけが生まれ、サナギや幼虫の段階で成長を止めて単為生殖を行います』 私は壁の計測器が安全値を示しているのを確認してガスマスクを外した。自動販売機から出てきたコーヒーは風味も香りもないに等しかったが、このご時世にそんなものは求めるだけムダなことだった。地球という密閉された空間はいまやガス室に等しい。環境論者たちが唱えているような汚すだけ汚した人間への地球の復讐かどうかは知らないが、世界各地で数年前からあらゆる種類の有毒ガスの濃度が高まりはじめた。今では、日本を含めて世界のほとんどの地域でマスクなしで外に出るのは自殺行為に等しい。 『しかし、キノコが食べつくされ、食料が少なくなり、飢餓が進むと』 私は黙って少しずつ黒い液体をすすりながらテレビを見た。どこかの国が全滅したとかガスマスクや食料をよこさなければ全世界に核攻撃をしかけると宣言したとか、そんなニュースをやっていないのは珍しいことだった。だがそれにしても、キノコだとかハエだとかその幼虫(つまりは蛆だ!)を画面に延々とな流すのはあまり視聴率につながることとも思えなかった。 『再び翅のある子を産み始めます。こうして新たな世代へ』 空にした紙コップをくずいれに捨てて、私はガラス張りのドアの向こうを見た。広い駐車場には黄色いビートル一台きり止まっていない。あらゆるものが値上がりしている。とりわけガソリンは天井知らずの高値で、電車嫌いの妻のお産のために実家に戻るのでなければ、私だって車でこれだけの距離を走ろうとは思わなかった。 『それで、教授。このハエが世界中で起きつつある現象を解く鍵ですか』 出費は二か月分の月給の高だが、神経質になっている身重の妻を満員電車に乗せるのはかわいそうだったし、妻の両親は待ちかねている。仕方がないと諦めた。それに、こんな機会でもなければ、愛車のビートルはほこりをかぶったまま車庫の奥で寝ているばかりなのだから。 ビートルのフロントガラスの内側で、きらりと何かが光った。助手席だ。目をこらしたが妻の顔は見えない。代わって、車内の空間になにかがある。薄い飴色で、葉脈のようなすじが走っている。最初はすぼまっていたそれが見るうちに伸び広がった。私はぼんやりとさなぎからかえったばかりの蝶を思い出した。 『まだ仮説の段階です。人類は地球に誕生し、地球で進化したものと考えられています。しかし、これは、おそらく』 黄色いビートルの内側で、それが振り返った。どことなく人間のおもかげを残した顔の中で複眼が輝いている。そのむこうに産褥をおえてぐったりとした妻の顔が見えた。私は立っていられなくなり、膝をついた。 『瀕死の地球を立ち去る人類の新たな世代が生まれつつあるのです。世界中でいっせいに』 ガラスが粉々に砕けて、飴色の翅を持つ生き物が飛び立った。それはガスでかすんだ大気をどこまでも高く飛んでいって、やがて見えなくなった。 ---------------------------- 1コナミドリムシ 2ミトコンドリア 3免疫 (いずれも2004年6月の日記に掲載) -
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