終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年05月29日(日)

歌人オシァンは竪琴を手に取った。
「わが内に畳まれし勇者たちよ、白い胸の娘たちよ、
 楽の音とともに歌に乗って立ち戻れ。
 この高殿に再び生きて、我らに涙を流させよ。
 おお、丸い盾の勇者たちよ、
 山腹に射す明るい日差しのごとき娘たちよ!」

ケルト族のサーガ『オシァン』よりかなりいい加減に引いてみる。
ここでは「生きる」とはどのように扱われているのだろう。
旧約における「生ける神」と似ている気がする。

またこのサーガにおいて、
歌人は殺すに躊躇するものとして描かれている。
彼らはまさに胸中に「数多の勇者と娘たち」を生かし続け、
時に応じて呼び出しもし悼みもする存在として扱われている。
彼らはその生きた知識によって、人間以上のものとされているのである。


「生ける神」「生きる英雄/娘たち」「生かす歌人」

共通知識(=歌)に入ることがすなわち「不死を得る」ことであったのか。
では共通知識から「引用する」ことによっては?

引用もまた、個々の人間を断片から全体の一部に
引き上げる行為ではないのか。
永遠の家とはそれではないのか。

十字架上のイエスの「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という言葉は。
それはつまり彼を後ろから神の子として読み直させる原動力ではないか。
現在が過去を名づけたのではないのか。
そうした奇妙な可塑性はもとより知られてはいなかったか。

それは必ずしも彼が「神の子」として特別な形で生まれた証拠ではなく、
その発言によって、「神の子」として生きたことになったのではないか。








 見よ、マルチェロは顔を上げた。陽光はその額にかかって美しかった。居並ぶ裁き手たちは瞠目してこの罪人の顔に見入った。殺戮者、簒奪者、詐欺師――それらの罪を負うものとしては奇妙な美ではなかったか。遠雷のごとく、さながら遠い山腹に射す日差しのごとく、流れ行く雲のごとく。
 戦勝を誇る王者のごとき美にあらず、青春に奢る少年の美でもなく、すっくと立ったその背に悲しをたたえた頭を掲げ。罪人の衣は射しかかる陽光に漂白されて、このとき聖別されたもののごとくであった。
「聞け、予はここに信仰を告白す」
 マルチェロは言った。一座は静まり返ってその声に聞き入った。
「神をおいてほかに神なく、この信仰を措いて誠なし
 御手の厳しさこそ、我は身を低くして待ち望むものなり
 御怒りの激しさに打ち倒され、雷に焼かれることをこそ望むものなり
 なんとなれば神なくして一切は空しきを予は知ればなり
 聞け、これぞ予が信仰なり、エイメン」
 雷鳴、稲妻、驟雨にも似た言葉であった。人々は静まり返り、よく一言を発しうるものもなかった。マルチェロは一人頭を掲げて立っていた。


-



 

 

 

 

ndex
past  next

Mail
エンピツ