終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年05月30日(月)

思い出した本がある。
『魔女ランダ考―演劇的知とはなにか』(中村雄二著)
バリ島の魔女ランダと善神バロンの舞踏をケースとして、
演じられることによって再生され続ける知を問う本だ。

演じるとはつまり、引用の最たる形ではなかったか。
知、あるいは神、物語は演じることによって顕現するのではなかったか。

だが、引用とは演劇に留まらないのではないか。
翻案により、翻訳により(小林秀雄によるランボォをみよ)、
また狭義の語句の引用により、批評という形態における再話により――
ある魂と思考というフィルターを通して顕現するものがあるのではないか。

いわゆる独創というものがたかだか一人分の知でしかないのに比べ、
ソフォクレスの『オイディプス王』にしろ、
シェイクスピアの『マクベス』『リア王』にしろ、
すべてその時代に神話/風説としてよく知られていた物語やプロットの
翻案ないしは高度な芸術的昇華であり、広い背景と時代の厚みを持つ。

これが引用の独創に勝る点ではないかと私は思う。
引用は、いうなれば魂を二つ三つばかり持っているのだ。
学問は前人の巨大な背の上に載らねばならぬことがよく知られているのに、
なぜ芸術においてはこうも独創が過大な評価を受けるのだろう?

あれ? 話がずれたよ!
「生ける神」の「生きる」とはなにかというとこを考えていたのに。
あと悲劇を悲劇たらしめるのは「周知された筋」だということについて
なんか考えようと思ってたのに。

同じバリ島を扱った民族学の本で、なんだっけ、
原書で読もうとして挫折した本がある。
あれもやっぱり面白かったんでたんだけどなあ。
なーんて本だったかなあ。
うーん、忘れた。


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