- 2005年03月15日(火) 行かざるまた帰らざるに 暗い空間は空っぽだ。死ですら灰か塵が残すだけそこより空虚ではない。彼は黙っている。言葉さえないのだ。あれほど激しかった彼の感情や記憶、その名さえこの虚無にあっては次第に流出し拡散して、掴めるほども残っていない。かつて感情にまた記憶に苦しんでいたときには彼はそれを望みさえしたが、だがその望みもとうに消えてしまった。 残っているものがあるとすれば、おぼろげな願いであった。夜に遠い火灯りを臨むよう、かすかにまたたく願いであった。だがそれも消えつつある。 ……――。 かすかな音を聞きつけた。音。彼は耳があったことを思い出した。聞くことをを思い出した。そして頭を廻らせた。そして体についてかつて知っていたことを思い出した。それに付随するものどもが戻ってきた。彼は深く息を吸い、そして夜明けの香りをそこに知ってかすかに笑った。 ――――。 音はさらにその声を大きくしている。親しい声だ、呼んでいる。彼は目を思い出そうとした。目を。見ることを。知ることを。そして思い出した。 青い目の弟がなんとも情けない顔でのぞきこんでいるのを、マルチェロはぼんやりと見上げた。昼食後、本を読んでいるうちにいつの間にか眠っていたらしい。そんなことはかつてはなかったが。だがまあ、多少の変化があってもおかしくはない程度にはいろいろあった。 「おい、兄貴」 これも変化の一つだ。以前ならそんなふうに呼ぶことを許しはしなかった。そしてこれについては今でもまだ、多少のわだかまりはある。マルチェロは憮然として弟を見上げたが、青い目の弟は恥知らずにもひどくふやけた顔をして、この胸の上にへたった。 「…かと思った」 マルチェロは何も言わなかった。ククールは顔を上げた。 「あんた、死んでるのかと思った」 その言葉がある意味で正しいことをマルチェロは知っている。かつての騎士団長は死んだのだ。野心が死んだときにともに死んだのだ。そしてその日、ククールが手を取って引き上げたのは別の人間だった。 おかしなものだ、と、マルチェロは考える。人が変わるというのは次第に変わるというようなものではない。死んで生まれ変わるのだ。別のものとして灰のうちから新たに立ち出るのだ。マルチェロは手を伸ばし、弟の髪を撫でた。 「右手を見よ、また左手を見よ。神の手にならざるものあらんや」 ククールが得たりというように子供の顔で笑い、続けた。 「従うことは生きることなり、生きることは従うことなり」 なるほどそれはよく知られた祈祷の文句だ。出典と続きがわかったとて自慢になるほどではない。マルチェロは目を閉じて笑い、胸の前で十字を切った。 「神を称えよ」 ククールの詠唱が重なった。 -
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