- 2005年01月08日(土) 1: 王子は左手を下に横たわったまま、耳を済ましていた。部屋を横切って近づいてくる足音がある。片足を軽く引きずる足音は、確かに従者ハスンのそれに違いなかった。老齢に近いこの丸々と太った黒人奴隷は王子が幼いころからの世話係である。乳母の手を離れた日からもっとも身近であったといってもよい。 ハスンが右膝を痛めたのは、王子が五歳の時だ。乗っていた駱駝が不意に暴れ出したのを引き止めようとし、手綱をつかんだまましばらく引きずられたのだ。鋭い石に削られて裂け、白い骨までのぞかせた膝から血が流れるのさえそのままに、この太った無学な奴隷は泣きじゃくる王子を腕に抱えてあやしたものだった。そして王子が十二歳の誕生日を迎えた今日でも、ハスンは―やたらに迷信深いところを除けば―もっとも信頼に値する忠実な従者であった。 王子を起こすのはハスンの毎朝の仕事だ。最近では、王子は片足を引きずる足音だけで目を覚ます。だが、よほどのことがない限りはハスンの職務をまっとうさせてやることにしていた。“神かけて、王子様。すっかり体が溶けて寝床にくっついてしまっていないところを見せてくだっせ”。独特の抑揚をつけた目覚ましの文句は王子の覚えているかぎり判で押したように決まっていた。 だが今朝は様子が違うようだ―と王子は考えた。身じろぎもせずに横たわり、足音はどうやら寝台の枕元、卓子の横あたりで止まり、近づいてくる気配がない。常時の習慣を乱すべきか考えあぐね、王子は薄目を開いた。 ハスンの足が見えた。いつもの古びた皮の草履だ。太った毛だらけの足だ。だが奇妙なことに震えている。せわしなく往来することはあっても、震えるところなど見た記憶はなかった。王子は―― 「神様、おお神様、お許し下さい、お許しを」 驚愕の向こうにむせび吼えるような声が聞こえた。体に加えられた衝撃が何か飲みこむまでに一秒もかかっただろうか。大きな太った手が王子の喉をつかみ上げ、寝台に埋めこもうとするようにすさまじい力をかけてくる。喉の骨が軋み、起きていることの衝撃が実際の苦痛に勝って視界を眩ませる。目を血走らせ、口の端に泡を浮かべるハスンの顔は地獄から立ち戻った悪鬼のようだ。 右手は夢中で動いた。 「――」 血走ったハスンの目がなおさら大きく開いた。その目が何度か瞬くのを王子は見た。太った顔から今にもこぼれ落ちそうなほどぎょろりとむき出された目玉は何度か瞬き、不意に反転した。それと同時に喉のあたりから圧迫が消えた。 さんざんに咳き込み、王子がようやく我を取り戻したとき、ハスンは床に倒れ、すでに生き絶えていた。王子は自分の右手に握り締めたままの短刀を不意に見つけ、次いで血まみれの死体を見た。枕の下に隠してあった短刀がいつ自分の手に入り、その刃が何度ハスンの太った体を貫いたのか、王子は覚えていない。手の中の刃が分厚い生きた肉を突き通す気味の悪い感触だけが残っていた。短刀の柄に貼りついた指を震える手で一本ずつ引き剥がし、王子は刃を投げ捨てた。 短刀は石灰で塗られた土の壁にあたって鈍い音をたて、次いで床に転がった。手も顔もぬるぬると生暖かく、真新しい血の鉄錆に似た匂いがした。王子は黙って寝台を降りた。小さな天窓から忍び入る早暁の青い光で、部屋はぼんやりと明るい。声もなく見渡した視線が古びた机の上の細い紙片を捉えた。帯状のそれは伝書鳩の足に巻きつけるために特に薄く長く作られたそれであろう。王子は指先の血を敷布でぬぐい、紙片を手に取った。 『―時すでに―公正の族は敗れ、完全は―男子の尽殺を―。―かな逃亡―』 読み取れた文字は少なく、その意味が理解されるまでにしばらくかかった。王子は紙片を起き、黙って天窓を見上げた。四角い窓の外の空は昨日と変わらず夜明けを告げる。だが世界が王子に向ける顔はもはや昨日と同じではない。 -
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