終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年12月02日(火)

「マルコポーロの見えない都市」イタロ・カルヴィーノ著

 友人にこの本の存在の聞いてから、どうしても読みたかった。
 あらすじというほどのものもない。設定といえばベネチアの商人マルコが広大な帝国の主・フビライ汗に見分してきた帝国の諸都市について語る、というもの。
 しかしマルコが語る都市は経済や政治といった側面を剥ぎ取られ、非常に抽象的かつこの世界からかけはなれたシュールリアリスティックで奇妙な形をしている。それは一見して荒唐無稽である。何かの寓意のようでもある。だがある意味では、都市といわず存在というものはこのようではなかったかと思わせもする。

 存在。そうだ、存在。ある種の瞳があるものを、あるいはあるものとあるものの関係性を見つめたとき、こうした言葉以外では表現しえないのではないか? 言語はそもそも抽象を本質とする。ある思考回路がある世界を描いたとき、それはこのように見えはしないか? マルコが語る都市を私はどれも知っている気がする。

 私はどうも疑い深い性質で、私が見ている世界を横に立っている人が見ているとは思っていなかった。実際、私が赤と認識する色は、人に赤と呼ばれながら私の見るものと同じ色はしていないだろう。それは子どもの頃からの私の感慨だった。誰も私と同じものを見ない。私も誰かと同じものを見ることはできない。
 だから常に言葉は無意味だった。そもそもの情動と知識の最小単位であるパーツさえ共有しているとは信じえないのに、どうして何かを伝えることができるだろう。私は関係の不可能性、対話の不可能性を信じている。

 それをちょっと考え直すようになったのはカメラをいじり始めてからだ。私は最初、マクロレンズを大変愛した。これは愛といっていい。ただわずかなパーツ、目で見るわずかな部分をこの世界から分離し、純粋培養して一つの長方形の八割方を占めさせ独立させることができる。私はマクロレンズの見せる世界を愛した。
 しかし私は広角レンズの世界に出会った。これはマクロとは対照的な世界だ。そこでは世界を再構築することができる。レンズの歪みは一つの魔法だ。角度を変えれば世界が変わる。手前に置くもので印象ががらりと変わる。そこでは空間と世界を変えられる。もちろん扱いにくさはマクロの比ではない。私は目下、広角レンズの世界と格闘している。愛するというよりも恋している。戦っているのだ。

 カメラが描き出すのは私のメッセージだ。これは傲慢な謂いだろうか? カメラはそこにあるもの以外は映さない。レンズはその機能以外のことをしない。だがその世界の断面を、そのレンズで切り取るという行為はすでに一つの創造だろう。生まれるものは言葉と同様、ある一つの意味を持たずにはいないだろう。百万年も前から新しく増えたものもない日の下で、もう長いあいだ創造は無限の選択の中にしかない。

 だからいわせてほしい。カメラが描き出すのは私のメッセージだ。おそらくイメージ、写真というものは言葉よりは抽象の度合いが少ない。私は私の言葉を他人見せ、あるいは聞かせることは非常に恥じまた恐れるが、写真の方は見せたいとさえ思う。写真は明瞭だ、写真は読む上で誤ることが少ない。少なくとも言葉より。
 私は私の見たものを見せたいとき、黙って写真を示す。私はそこに非常に簡単明瞭で読む上で間違うこと少ないメッセージを載せてあなたに示す。それともこれもやはりあなたには何も伝えないだろうか? 多分そうだろう。

 だがこの一枚の写真、私の一瞬の視界の幽霊によって、私がこのように見ていたということをあなたは知ることができるだろう。関係性にも対話にも何の意味もないのだが。それともあなたはそこに意味はあると言うだろうか? それならこれもわかってくれなくてはいけない。写真は私に追いつかない。写真によって私の視界を共有しようとするなら、あなたは私と世界のしっぽだけしか見ないだろう。関係性と対話は「いま・ここ」にはなかなかたどりつかない。




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