終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年07月05日(土)

覚書。

まず、私が非常に感覚的な人間だということを免罪符代わりに書いておく。
私は論理的に明晰に話すにはあまりに素朴な人間である。


1:
『政治的な小説』というものがある。

この言葉を見て私が真っ先に思い起こすのは高校時代に読んだ中国のSF小説で、
題名は忘れたが、文中に全く全然さっぱり何の脈絡もなく
「この●●は共産主義の偉大さを証明しているのだ!」
というお茶噴出すようなフレーズがあり(実際吹いた)、
なるほど、独裁と政治とはこういうもんか、と私は深い感銘を受けた。


2:
さて、私は大学に入ってすぐにアラブにハマった。
正確には中世中東史にハマったのであるが、
なにせ関連のテキストはそれほど多くなかったもので、
図書館で埃をかぶっていた『現代アラビア文学選集』にも手を出した。

著者名は忘れたが、『太陽の男たち』という短編が選集に収められていた。
ネタバレ承知でざっとあらすじを説明すると、

パレスチナの難民キャンプから都市部に出稼ぎに行くために
十人の男たちが給水車の空になったタンクに乗り込んだ。
真夏のことであり、タンクの中は50度を越える暑さで、耐えられるのは十分程度。
そのあいだに街への検問所をくぐりぬけられるかどうかは危険な賭けであり、
十人はそれぞれ個人的な事情を抱えて切羽詰っている。
運転手の努力にも関わらず、給水車は検問所で足止めを食らい、
再びタンクの蓋を開けたときには全員が死んでいた。
運転手は「なぜ黙って死んだ。なぜ助けを求めなかった」と砂漠に叫ぶ。

……という暗いがうえに暗い話である。
おまけにオチてないといえばオチてない。
小説としての完成度、フィクションとしての完全性からいえばダメかもしれない。
しかしそのインパクトにおいて、よくできた小説どころの話じゃなかった。

同時に、この小説は私のために書かれたものではないと感じたのも本当だ。
運転手の「なぜ」という叫びを自分自身のものとして私は聞けない。
これは第一義においてアラブそのものへの問いだ。
この問いはアラブを通しその状況を通して、
文学的に普遍に全人類に呼びかけてはいる。
だが書かれたのは読むものすべてのためではない。


3:
政治的な小説。

政治とはなんだろう。
日本で普通に暮らしている限り、政治を自分とその内面そのものに関わる問題だと
そう感じることは難しい。政治的状況を内面において生きることは難しい。
日本では政治は『俗』であり『陰謀』であり、二級品だ。
政治的な発言をする者はうさんくさい目で見られる。

そんな日本の小説はどんな体裁をとっても結局『私』小説ではなかろうか。

もっとも『太陽の男たち』はその強烈さの半面として、
文学になりきっていない。文学はある程度万人に語りかけるものだからだ。
文学以前、小説以前の熱気は「いま、ここ」に属し、
文学としての「いつか、どこかで」的普遍の広がりを持たない。


4:
内面において生きられた政治を描いたものが政治的な小説であるなら、
政治的な小説は日々消費され、時々刻々と古くなる。
だがそれが生きた小説ではないだろうか。
人間は感情を持ち、笑い、遊ぶ動物であり、政治的な動物である。
政治という自らの集団と結び付けられた生を生きるのが人間である。

夜の言葉で世界を語るのがファンタジーであるなら、
真昼の言葉で書かれた物語、かな。


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