- 2002年11月12日(火) 宮沢賢治へのオマージュ。 1: 「祀られざるも神には神の身土があると あざけるようなうつろな声で さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ …雪をはらんだつめたい雨が 闇をぴしぴし縫っている… まことの道は 誰が云ったの行ったの さういふ風のものでない 祭祀の有無を是非するならば 卑せんの神のその名にさへもふさわぬと 応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ …ときどき遠いわだちの跡で 水がかすかにひかるのは 東畳む夜中の雲の わずかに青い燐光による… 部落部落の小組合が ハムをつくり羊毛を織り医薬をわかち 村ごとのまたその連合の大きなものが 山地の肩をひととこ砕いて 石灰岩末の幾千車かを 饐えた野原にそそいだり ゴムから靴を鋳たりもしやう …くろく沈んだ並木の果てで 見えるともない遠くの町が ぼんやり赤い火照りをあげる… しかもこれら熱誠有為なむらむらの処士会堂の夜半 祀られざるも神には神の身土があると 老いて呟くそれは誰だ」 宮沢賢治『産業組合青年会』 2: 暗い夢がある。 常に暗い夢がある。 ここにいながら、遠方にいる。 それとも、遠方にいながらここにいるのか。 そのように彼の視点は二重に存在する。 彼は確かに会堂の中にいる。 そこにいながら、取りつかれているのは外側の闇にだ。 どれほどか人々の幸福を願いそのために生きながら、 進歩と豊穣を願い尽くし実行しながら、 外側の闇にも彼はいる。そこからの呟きを呟く。 内側と外側の視界を同時に持ち、 内側と外側の苦しみを同時に苦しむ。 どちらかになることはできない。 二重性が彼の本質だからだ。 引き裂かれている。 取り憑かれている。 3: 祈ることはできない、諦めがあるだけだ。 青白い修羅の悲しみがあるだけだ。 引き裂かれたものの悲劇は、つまりは縫い合わされることがないところにある。 悲しさがある。 寂しさがある。 身を切るような悲しみは、常にここにいながらここにいないことに根ざす。 取り憑いているのは不在と非在。 出口がないのは二重に閉じ込められているからだ。 この腕を広げて、そして抱きしめたい思いばかり悲しく燃える。 しかも届かない。 その死の瞬間さえ、彼は外側から見ただろう。 そして哀れとも思い、あさましいとも思っただろう。 しかも同時に死に行くのは己であったのだ。 -
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