終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2002年09月14日(土)

血と肉。

1:
カタい話をする機会があった。
「日本人というアイデンティティは、幻想か否か」
「日の丸是か非か」
……私は基本的に、こういう高尚な話はキライである。

理由はカンタン、実がない。意味がない。
実体がないぶんだけ、議論がムダなのだ。
ためにする議論ほど不愉快なものはない。

しかしまあ、そういう話になった。


2:「日本人というアイデンティティは、幻想か否か」

「だって、●区民とか、●市民とかなら実感あるけどさ、日本人なんて
言われたってさ……」

そーか? 私は日本人である。自明の理として日本人である。
……他の人にはそうでないかもしれない。

私は異国で育った。
私の帯びている文化は周囲と異なり、
私の帯びている言葉は周囲と異なり、
私の帯びている血は周囲と異なっていた。

私は自分自身を省みて、私は周囲をゆっくりと観察して、
自分は「日本人」なのだと結論した。

「日本国」パスポートによって私はその国に存在を許されていた。
「日本語」によって私の世界は区切られていた(外側にはどこまでも遠い空間)

そのように私は実体あるものとして、「日本」を認識した。
身に迫るものとして、「日本」を識った。
(日本の中にいちゃー、そんなにはっきりはせんわなあ……)


3:「日の丸是か非か」

「不愉快に思う人がいるんなら無理して掲げなくてもいい……」

とは思わん。思えん。
人間、自分を主張せずに生きてはいけんのだ……。
かつて殴った蹴ったした相手が自分の顔見て不愉快になるから、
整形しろと言われたって、そりゃ困る。

この顔で生きてきたのだ、と。
善も悪も自らの名の下に知らねばならない。
自分を否定してはならない。

なぜなら、どれだけ否定しようと、
どれだけ透明になろうとしようと、
生き抜くため交渉や対立、妥協や協力を欠かせない世界に生きているからだ。

そして相手は、どれだけ否定しようと「こちら」を見る。
「否定したがってるこちら」を見る。
「透明になろうとしたがっているこちら」を見る。

どうあったって、私たちは、日本は、日の丸は、ここにいるのだ。
自らの歴史を、自らの存在を否定し去りたいなら別だが、
そのようなものとして生きぬきたいなら、善も悪も載せた旗を掲げねばならない。

と、思う。


4:
我ながら……硬派かのう……(ふ)

まあ、主義主張というのは、うーん、血肉だから。
議論するだけムダなんだよなあ。
どこに重きを置くかっつのは、感覚だもんなあ……。


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