- 2002年06月08日(土) ドント・キル・ヒム。 多少憂鬱になりつつ旅メモ第5弾。 1: 文化とはつまり、世界の解読(デコード)の仕方ではなかったか。 ヨーロッパにおいて解読と読みなおしは積み重ねられ、 世界は神の書いた書物として解読しうるものではなかったか。 ここには巨大な異界たる山がない。 起伏は全て丘。 「認識の光」の中で、観察と分析は容易であり、 世界の読みなおしの堆積たる都市と聖堂は非常に確からしい。 世界は確かに読みなおしえよう。 だが砂漠においてはどうであったか。 彼らは中庭を中心にテントを張り、その外側を諦める。 「世界の解読」などありえないことを知っている。 それはなぜか。 砂丘がある。 それは光をもって照らしても照らし得ない。 認識と読みなおしの及ばぬ異界のただ中にあった記憶を アラブという文明はその宿命として持っていたのだ。 彼らは読む。 また読みなおしを行いもする。 だがそれら全てをつなげまた統一することはない。 それは宿命である。 ――彼らの文明は行き詰まらねばならない。 細胞に似た家々を連ねても、 「西洋」の都市に似はしない。 彼らは読みなおしを徹底して行い堆積させるかわりに―― 無限の偶然性の中で生きるのだ。 何ゆえと問うことなく。 それが宿命ではなかったか。 2: 結局、文化が「解読」に他ならないとしたら、 そしてまたわたしの思考も「解読」である。 「解読」は鎮魂に似ている。 私は出会う全てを鎮めまた読みなおそうと試みている。 私という人間が誰かを知るため、 私は外界を秩序づけ、それにより―― 外界を、また私に触れる全てを鎮めようとしている。 そうだ、全て思考とは鎮魂。 しかも終わることはない。 この仕事を神に返す力を。 3: 私が私自身を解読しうるのは、 ただ周囲の人々との関係性においてのみではないのか。 彼らこそが私の私自身に向かう鍵であり、 私が誰かを知るための窓ではないのか。 故に私は彼らを混じりけなく愛することができないのではないのか。 私は自分を解読したいと望みながら、 一方で同じほど強く、自分を一つの謎とみなしたいのではないのか。 だからこそ神を拒むのではないのか。 -
|
|