終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年11月18日(日)

聞こえますか、見えますか。

1:
「それがどうした」という言葉は。
一切の価値をはねのける――劇薬だ。
分量を間違えては、いけない。

でないと。

町を歩きながら、無限の荒野を歩くことになる。
我が家のベッドで眠りながら、無限の宇宙の真中に横たわることになる。
酷薄な星々の光を全方位に見ながら。

私は時々、多く服用しすぎてそんなハメになっている。


2:
ニーチェは、精神の三つの形態について述べている。
その変身について。

駱駝、から、獅子。そして、幼子。

一切の既成の価値、一切の道徳律をその身に引きうけようとする駱駝。
背負うものの重さに自らの力を知るもの。
一切の既成の価値、一切の道徳律を引き裂き、反抗する獅子。
敵の力をもって、自らの力を知るもの。
そして、幼子。
既成のものを、なにひとつ、持たない。
創造する、もの――。


「それがどうした」と、駱駝も獅子も幼子も言う。


駱駝は言う。それがどうした。
――それは重いだろう。私の背骨をへし折るかもしれない。
  それがどうした、私は背負う。背骨は折れれば折れるがいい。

獅子は言う。それがどうした。
――それは無数の人々にとって道標であり誇りであり至高のものだったろう。
  それがどうした、私は引き裂く。非難したければするがいい。

幼子は言う。それがどうした。
――わたしはなにも知らない。
  それがどうした、わたしもまたひとつのものである。
  わたしはこの目で見るだろう、この耳で聞くだろう。


私はまだ、幼子のようには、それがどうした、と、言えない。
少なくとも、純粋には。


3:
私はまだ駱駝であり、獅子なのだ。
他者によって自らを知るものなのだ。

否。

私は駱駝であり獅子であり、幼子なのだ。
全ては同時に存在する。

存在しうる。
対立項ではない。
あるいは、それが病なのか。

自らを一つの主体として立つことは困難だ。

私ははじめてこの足で立ったときのことを思い出す。
そのとき私はなんとあぶなかしく、頼りなく、そしてまた――
この足の裏で自らの重さを完全に支えるということに――
どれほどか喜びを覚えたことか。
それは、生涯で、最初の歓喜だった。確かに。


4:
「それがどうした」という言葉は。
耐える力を持つ。
――打ち壊す力を持つ。
一切を。何もかもを。全てを。合切を。

だから、廃墟に立たないために、
服容量に気をつけよう。

それとも。

いっそ、廃墟の中に立ってしまえばいいのか。
何もかも打ち壊し投げ捨てて。
そこからしか、作り直せないのか。

それには。

私はまだ、ふんぎりがつかない。


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