- 2001年10月21日(日) シュヴァンクマイエル 1: 扇町スクウェアという小さい映画館で、 親友と二人、夜遅くまでヤン・シュヴァンクマイエルの映画を見てきた。 「アリス」「ファウスト」辺りは見たのだが、 今回かなり初期のものが来るというので、 ちょっと楽しみにしてたのだ。 ああ、シュヴァンクマイエル、 このひとは、映画監督というよりは、 動画(アニメーション)作家。 彼の紡ぐややシュールな映像は、 物語というよりは詩。 したがって、理解するよりも 感得しなければならない種類のものだ。 しかも、映像、視覚の像というよりは、 むしろ触覚や嗅覚に触れてくる。 普段使わない脳みその部分が、刺激される。 キョーレツ(モーレツ?)だ。 2: 「G線上のアリア幻想」 冒頭、男があらわれる。 男はうすぐらい階段を上り、部屋の扉を開き、 上着をかけてピアノの前に座る。 響き始める――「G線上のアリア」 ストーリィを求める脳を置き去りに、 映像は迅速に積み重ねられる。 無意味であり、関連のない映像の羅列――は、 美的ですらない! 抉り取られる壁の穴、 閉じた窓、 開かれて闇に続く扉、 石の詰め込まれた郵便箱。 視覚だけが追いつける足の早さで、 映像は転変する。 耳にはアリア―― ふいに――気づく! この映像もまた、同じ音楽を奏でている! ――感覚を叩きのめされる。 この旋律、この変調、このメロディ、 ああ、そうだ。 ここに現出している映像だ。風景だ。窓だ。 音楽がここに顕現している! 小林秀雄は、「モォツァルトのかなしさは疾走する」と書いた。 シュヴァンクマイエルは、バッハに並走するのだ! アリア――を、この目で見ることがあるとは、思ったこともなかった。 しかも、悪魔的なシュヴァンクマイエル一流の筆致を失ってはいない。 聴覚の視覚への翻訳などではない。 音楽に合わせて映像を流しているだけなどというものでは更にない! 彼は異次元を駆けているのだ。 異世界の音楽なのだ、 異次元の暗がりに響くアリアなのだ、 ありえざる角度から突き刺さってくる――それは。 目眩む―――――― 3: 「オトラント城」 「静かな家の一週間」 「庭園」 「ジャバウォッキー」 と、プログラムは続くのだが、 それらについては書かないでおく。 どれも面白かったし、発想も手法も、なにより映像も鮮やかだったけれど。 それらは「アリス」や「ファウスト」への 前段階に過ぎなかった。 私はそれらをもっと完成した形で見ていた。 「アリア」のあの一つの方向、完成は、 私の知らないものだった。 それだけで十分だ。 4: 私は不勉強なファンである。 私は自分の見たこと、思ったことを書くだけだ。 ……映画の帰りに食った 「藤平ラーメン」の餃子が、死ぬほどうまかった、と 付け加えても、怒らないでいただきたい。 もちろん、ラーメンもうまかった。(こくり) -
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