終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年10月12日(金)

意識化のワナ

1:
自分の全ての行動を、
全ての言葉を、
全ての思考を、
感受する全ての感覚を、
管理したい。

と、思ってた。
割と最近まで。

現在?

……ムリだわさ。
もっと早く、気づけばよかった。


2:
「ちゃんと」の呪縛は私の上に深かった。

もちろん、子供の頃から私はだらしなかったし、
開けっぱなしの引き出し、
出しっぱなしの鋏や糊やら文房具をさして
うちの母上が

「ちゃんとしなさい!」

と言いつづけてこられたのはひじょーに当然至極なのだが。
そして申し訳ないなーと思いつつ部屋のなかなか片付かない、
そういう性格は変わっていないのだが。

だが、しかし。

人間は、部屋を片付けるようなわけにはいかない。

というのも、真理だ。


3:
他者の目。

人間は、どこかで自分を、他人の目で見ている。
その目の基準は社会のスタンダート、
生物学的特性、親の垂れた教訓、
これまでの経験、マナーブックなどなどからできあがり。

これを持たない人間は、
そもそも社会的に落第する確率が非常に高い。

(よほどの天才、あるいはある程度奇人の存在の許される状況は別)

部屋を見まわして見るがいい、
鏡のない家などない。

「鏡」は。

他者の目で自分自身を見る窓、だ。
この窓は人間存在の極北であり――同時に。

人間が社会的動物であることの証明だ。


4:
人間が社会性動物である、ということ。
それはつまり、人間が人間の中でしか生きられないということ。

「環境」という言葉は、自然だけを指すのではない。
人間にとって、最大の環境が人間だ。

つまり。

嵐を予知し、今年の雨と実りと水底の状態について敏感である以上に
人間は、人間に対して最も敏感でなければならない。

仲間の表情、その向背、妻や夫の不倫の有無。
家族の、友人の、心理的な距離。
何よりも、自らの位置を測る――こと。
人間と、社会への――感受性。

狩猟社会だけではない、
この現代社会において更に、
人間が自らの位置を、周囲のわずかな変容を、
嗅ぎつける能力というものは――不可欠だ。


5:
私は自分自身を、あまりに長く「他者の目」を通して見てきた。
私は常に自分自身に対する他者であろうとしてきた。
つまり、私の基準は――

「ちゃんと」

することだった。

服装を整えるように言葉と行動を整えること。
部屋を片付けるように感情を片付けること。
いるものといらないものをえり分けさせられたように――

自分自身を取捨選択すること。

ああ、なんと多くを投げ捨てたことだろう。
まさしく私自身である感情や、言葉を。
しかも誰の手にもよらず自分自身の手で。

他者の目に対してあまりにも忠実であった、私は。


6:
私は、全てをなくしてはいない。
私はまだ、幾らかのものを持っている。

そして、これらを捨てる気はもうない。

誰が、あるいは何がそれを――必要だ、と言っても。
それがいかに「ちゃんと」していないことであったとしても。

他者の目を捨てる気もない。
それは実際、必要なものであるし――
これはこれで、私の財産だ。

ただ、私はこれから、自分自身により忠実でありたいと思うだけだ。
全て『徳』を、『私』の方へこそ引き寄せ、
それを私の武装にしようと望むだけだ。

全てを管理し、正しいものになりたいとは、私は思わない。
何かでありたいとは思わない。そう思うことはもうやめた。
私は私を基点として行為しよう。善かれ悪しかれ。

私の父が遠い日、あの古い山梨の家を出たように、
私の母が突然放り込まれた南洋であんなにも明るく生きたように、
私もまた、この肌を風に晒して生きよう。

出口はどこだろう。
おそらくは、きっと――近い。


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