終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年10月07日(日)

私は悪意に耐えない。

1:
私は悪意に耐えない。
それは私が清いということではない。
弱いということの証明に過ぎない。

弱い?
――そう、胃腸が。

問題はそこだ。

悪いと知りつつ悪いことしようとすると、腹下す。
……けっこう、どーかと、思う。


「でたらめに生きれば天が罰を下し、
 でたらめに食えば腹が罰を下す」
          モンゴルの諺より


私が悪いことができるのは、
だから、うっかりとか、それがそんなに悪いことと
思わなくてとか、自分が正しいと思い込んでいるとか、
あるいは――どーでもよくなって、とかいう場合だけらしい。
それだけでも世界の悪の大半を満たしているが。

自分から悪人になるにも丈夫な胃腸がいるとは。


2:
悪意を持つ人の瞳をじっと見つめるのは興味深い。

ある種のひとは目を逸らす。
ある種のひとは睨むように視線を返してくる。

そこにあるのは意思を持つ感情。感情を持つ意思。
――人間が動物になる瞬間だ。

そしてこちらの顔はどのように見えていることだろう。
私はさぞや冷酷な目をしているに違いない。


「深淵を見つめるとき、
 心せよ、深淵もまた汝を見つめる」
         ニーチェ『ツァラトゥストラ』より


私は悪意に耐えない。
最も繊細な悪意さえ、私をして苦痛を覚えさせる。
最も健康な、単純な傷つける意思でさえ、私をして極度に疲労させる。
最も牢固な病となって、半永久的に私を襲う。

だが悪意の鎖もまた、独自の美しさを持ち、私の目を奪う。


3:
善良であろうとすることの呪縛を越えたものだ、悪意は。
最も疲労したときに私が『人形』を忘れていつか生のままの私であるように、
それは呪縛に拘泥し呪縛に疲弊して呪縛を忘れ、本来の形を取り戻している。

悪意は生きた、剥き出しの生命だ。
その皮膚は弱く、この世の風は全て苦痛を与える。
存在し続けるためには、瞬間ごとに湧きあがる理性を克服しなければならない。


そうだ。


攻撃の意思、殺意――その鋭い刃。
逸らされる目の中の――瞬間の道徳への自省と。
再び向けられる目の中の――感情と意思の激烈。


そして。


それが許しを乞う安逸へと傾くのか、
それとも、自己を正当とするふてぶてしさに傾くのか。
あるいは――凍って悲しみめいたものに変わるのか。


4:
私は悪意に耐えない。

私は悪意が吹き上がる以前に、それを分解してしまう。
それを噴出させるよりは、今に付け加えるための糧としてしまう。
あるいは、冷たい洞察と。

私は青く澄んだ洞に住む。
ここの空気はひどく冷たく、そして乾いている。
原初のものである激情さえ、ここから出るには足りない。
むしろそれらは溶けて滴り、白く煌く石筍と鍾乳石を飾りと付け加えるばかりだ。


私は悪意に耐えない。


私に親しいのは寂しさだけだ。
この青い寂しさを抱いて――
私はただ見つめつづけるのか、この世界を。

出口を、ください。


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