- 2001年10月03日(水) 1: とある動物行動学の実験。 とっても簡単。 準備:猫の前に足に傷をつけたねずみを置く。 それだけ。(笑) ただししつこくしつこくしつこく、そりゃもうエンドレスに繰り返す。 と、さて、どうなるか。 考えられるのは、 猫、ねずみを追いかける。 猫、ねずみを捕まえる。 猫、ねずみを殺す。 猫、ねずみを食べる。 という一連の事象である。 さて、これ、どーなったか。 まず、猫は満腹してねずみを食べなくなった。 これは予想できる。 猫の胃袋には限りがあるからだ。 しかし、猫はねずみを殺すのはやめないのである。 殺してどうするというわけでもなく殺す。 そのうち、それも飽きてやめた。 が、捕まえるのはやめないのである。 捕まえて殺すわけでもないのに、捕まえる。 そのうち、それも飽きてやめた。 が、追いかけるのはやめないのである。 捕まえるわけでもないのに、追いかける。 そのうち、それもやめた。 後は、ねずみが来ても、 ちょろりと片目で見て、知らんフリ、決め込んだ。 2: 種明かしをしよう。 猫の本能において、 A ねずみを食べたい欲求 B ねずみを殺したい欲求 C ねずみを捕まえたい欲求 D ねずみを追いかけたい欲求 は、それぞれ独立しており、 これらそれぞれの欲求の強さもまた違う。 つまり、Aは3回すれば満足されるのに、 Bは5回、Cは10回、Dは20回、行われなければ満足されない。 なにゆえか。 もしも、猫が『ねずみを食べたい』欲求の強さ(=A)だけしか 『追いかけたい』欲求の強さ(=D)を持たなければ、 ねずみが一度でも猫の手(足?)から逃げたら、 猫は飢え死にする。 多分、自然状態では、20回のうちに3回、 ねずみを捕まえられれば、恩の字なのであろう。 だから。 欲しい気持ちは、手に入れる必要よりも大きくなければならない。 3: 自然は最良の裁き手ではない。 自然は過たぬ導き手ではない。 我々は、必要なよりも多く求める。 実際に手に入れうるよりもはるかに多くを願う。 そのようにできている。 それが業だ。 それが罠だ。 人間は、最も広い意味での動物なのだ。 この手指の構造は無限の過去へとその起源を遡る。 「人間はなんと多くの人間らしからぬことを考へ しかもただの人間にとどまることでせうか」 小林秀雄『私の人生観』 私は私を見つめる。 私は私の構造と組成を知りたい。 内と外から、私は見つめる。 「もうけっしてさびしくはない なんべんさびしくないと云ったとこで またさびしくなるのはきまっている けれどもここはこれでいいのだ すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ」 宮沢賢治『小岩井農場』より ひとがその起源として『さびしさ』を背負って生れ落ちたなら そのように生きることを義務付けられているなら そのようにしか生きられないなら、 そのように生きよう。 -
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