- 2001年09月28日(金) 1: 私は、その気になりさえすれば、かなり多くを見ることができる。 その気、というのは―― 見る私は、同時に見られる私でもあり、 そうして、大概の人は、私のように凝視する人間の前では落ち着かない。 さらに、私だって、落ち着かない人の前では落ち着かない。 従って、私があんまりじろじろ見るのは、 (1)相手にすごく興味を持ったとき (2)相手が別に凝視されてもなんともないようなとき (3)演劇なんぞのように、凝視が普通のとき (4)道を覚えておく必要があるとき (5)自分が相手に興味を持っているよとデモンストレーションしたいとき くらいだろうか。 しかし、本当はもっと見たいのである。 わずかな表情の変化、視線の揺らぎ、手の動き。 観察を集積すれば、もう少し、いろいろわかるのにと思う。 サングラスでも買うか……。(やめとけ) 2: 『マン・ウォッチング』という本がある。 デズモンド・モリスという動物行動学者の書いた本だ。 統計や、かなり筋の通った推論で人間の行動を分析、組み立てなおした本で、 かなり世話になっている。 死のうというならともかく、生きようとするなら、 「いかにして」ということを抜きにすることはできない。 なにがどうなっているのか、その像をおぼろげにでも持っていなければ、 うっかり身じろぎすることさえできないのである。 私は子供の頃に、この体の筋肉と骨について多くを学ばねばならなかった。 りんごを手に取るためにさえ、どれだけ多くの、また複雑な課題を 学習しなければならなかったことか。 しかも、体だけでは生きて行けない。 私は、自分と他人と社会の精神についても、多くを学ばねばならなかった。 ほんの一瞬だけ長く相手を見ることがどういう意味を持つのか、 ほんの少しだけ視線をそらせることがどういう効果を与えるのか。 なんと多くの失敗をしたことだろう。 そしてなんと多くの課題が残っていることだろう。 3: 本当の社交家を、私は一人だけ知っている。 彼女は、まったく、他人に自分がどういう印象を与えるかを考えない。 にも関わらず――彼女は完璧に振舞った! 彼女はいくつも、気ままにルールを破り、 しかも、そのことによって、更に皆から好かれた。 彼女は注目を集めようとする必要さえなく注目を集め、 しかもそのことをちゃんと知っていてへまをやらかさなかった。 否、へまさえ、彼女にあっては楽しいものだった。 もし彼女が全て意識的に振舞っていたとしたら、 彼女は心理における天才だっただろう。 彼女はすさまじい努力家であっただろう。 もし彼女が無意識のうちにそのように振舞うことができていたとしたら、 彼女は――そうだ、天使だったのに違いない。 残念ながら、以来、彼女に会う機会がない。 4: 全ての課題を片付けたら。 ――私は彼女のようになれるかもしれない。 だが、私は、そんなことを考えるのを、もうやめた。 人生はもう始まっている。 私はもう生きている。 終わりは刻々と近い。 ここも舞台の上だ。 踊らにゃならぬ。 この足は不完全だが、ともかくも二本ついてる。 転ぶことも舞踏のうちなのだと、腹を決めよう。 ――そら、もう踊っているよ。 -
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