- 2001年09月27日(木) 私的ナリチャ考 Q:私はなぜナリチャをするのか A1: 私はなぜナリチャをするのか? 私はもともと、モノカキだった。 表現は私の必死で作り出した『人形人格』からの自由だった。 別の物として存在しようとする絶えざる努力からの開放だった。 よい人間を書く必要も、よくあろうとする人間を書く必要も無かった。 私は私の全ての翼をそこに広げていた。 善悪を問われることなく。 誰にも気兼ねなく。 ひょとしたきっかけで、ナリチャという遊びを見つけた。 私はそこで別の人格を演じることができるのだと知らされた。 別の人格。善良であろうとする必要さえもない? 温和である必要も、好かれる必要もない? ああ、あるいは、私自身をさえそこに生かせるかもしれない。 それは、あまりにも私の世界では不評であった人格だったが―― 表現の中でなら――『私』も存在する余地があるのかもしれない。 そこで、ひとと関わり、仮想であっても――孤独ではなく、 存在することが許されるかもしれない。 少なくとも、それを試みることは許されるだろう―― 私は何よりもまず、ある人格を純粋に、利害にもしがらみにも 縛られることなく――だがひととの関わりの中で――追求できる場として ナリチャを始めた。 A2: 私はなぜナリチャをするのか? ここでは、感情は本当よりも本当らしい。 私はリアリティ追求の気風の蔓延する風潮は好きではない。 私は自分の見た『真実』だけを書く。それに例外はない。 ――が、それが本当に現実世界のなにがしかの『事実』に 順じているかはどうでもいい。 私は、現実世界でよりも、キャラクターを通しての方が より本当らしく生きているとさえ思う。 これは私が病んでいるということではない。 現実や『事実』の中で、いったいどれほど自分らしく また『真実』らしく生きる余地があるというのだろう? 生きねばならない、という大前提が、全てを規制する。 死をさえ視野に入れなければ、私のキャラクターたちは生きれない。 少なくとも、本当らしくは。『真実』には。 それゆえ、私のキャラクターたちは、死を視界に入れて生きる。 私は彼らを通じて生きることについて何がしかを洞察する。 死ぬことについても。……こちらは多少痛みを伴う。 A3: 私はなぜナリチャをするのか? 上の二つは私の考えだが、 だが実際、ナリチャにおいては、 日常の利害を離れてキャラクターを作成することが許されるという ことからか、現実の人間よりも生気に溢れたものが多い。 出会いは一つの喜びだ。 飾ることなく、後に退却の余地を残すことなく、 全てを賭けてキャラクターの人格を対決させることは、 ひどく、楽しい。 -
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