終わらざる日々...太郎飴

 

 

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- 2001年08月30日(木)

1:
「男と女との関係だけに限るまい。
 友情とか肉親の間柄とか、凡そ心と心との間に見事な橋がかかっている時、
 重要なのはこの橋だけなのではないのだらうか。
 この橋をはづして人間の感情とは理知とはすべて架空な胸壁ではないのか。

 人がある好きな男とか女とかを実際上持っていない時、
 自分はどういふ人間かと考えるのは全く意味をなさない事ではないのか」
                   小林秀雄『Xへの手紙』より

2:
「遭遇する」評論家、小林秀雄らしい言い草だと、思う。
小林秀雄は、ボードレールに遭遇し、ランボオに遭遇し、
中原中也に遭遇し、長谷川泰子に遭遇し、ドストエフスキィに遭遇し、
源実朝に遭遇し、モオツァルトに遭遇し、ゴッホに遭遇し、
骨董に遭遇し、ベルグソンに遭遇し――
それらへの眼差し、それらへの評論を通じて自分を表現した。

彼は対象への眼差し、対象への自らの感情の中に、彼自身を発見した。
彼は、「橋」をこそ、自分自身だと信じた。
「小林秀雄」という人間は、掴めるものではなかった。
見つめる眼差しの中にしか、存在しないものだった。
彼の実生活が、彼自身の本質と、いったいどんな関係があるだろう?

小林秀雄の時間は、奇妙な動きを示している。
私には想像できるような気がしさえする。
ボードレールの頃、モオツァルトの頃、と、歳月を数える小林秀雄が。
彼は一つの夢から他の夢に移行するように、生きた。
ボードレールという精緻な球体から、ランボオという球体の中へ、
更に多くの人々、更に多くの音楽、絵画と遭遇し、
そして――

そのどれも、彼を殺せなかった。


3:
「彼は逃走する美神を、自意識の背後から傍観したのではない。
 彼は美神を捕へて刺し違えたのである。
 恐らく此処に極点の文章がある」
          小林秀雄『ランボオ�機戮茲�
 
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。
 涙の裡に玩弄するには美しすぎる。
 空の青さや海の匂ひのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた
 「かなし」といふ言葉のようにかなしい。」
          小林秀雄『モオツァルト』より

「小田切:一流のものは全部同じということはないので、
     違いはあるでしょう。
 小林 :違いはあるけれども、要するに同じ魂なんだね。
     何か深いアナロジーを感じるんだよ」
          対談『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで』より

「俺はこの疑ひの底でひそかに信じている。
 もし本当の思想史というふものを人が編み出す事ができたら
 おそらくそれは同じような格好をした数珠玉をつないだように
 見えるだらうと。」
             小林秀雄『Xへの手紙』より


4:
小林秀雄は、「美神を捕へて刺し違え」はしなかった。
彼はそういう詩人の姿を見たのである。
空や海がけして悲しまないように、それを見るものだけが悲しむように、
「かなしさ」そのものである詩人、そうであるがゆえにけっして
悲しまなかった詩人の、その「かなしさ」を悲しむのである。

ただその「かなしさ」にだけ小林秀雄は見入る。
「かなしさ」を持たない「魂」は、
小林秀雄とは遭遇しない。彼はそれを見る器官をもたないからだ。

そうだ、まるで小林秀雄は、そういった「魂」を見る
特殊な器官を持っているかのようだ。
否、そのために彼の全ての感覚を研いでいったようだ。
それ以外のものが見えなくなるほどに。

そして彼の舌は、その「かなしさ」を語る。
見たものを語らずにはいられない。全て考証を装う部分は前置きだ。
そのとき、彼の言葉は歌になる。彼の言葉は、歌う。

だが、彼の遭遇した誰も――彼を殺さなかった。
もとより彼らに彼を殺すことができようはずもなかった。
そして彼は、「刺し違え」るべき美神を持たなかった。


5:
「俺は人を断じて殺したくないし、
 人から断じて殺されたくない。
 これが俺のただ一つの思想である。
 だから必度流れ弾にあたって犬のように死ぬだらう」
          小林秀雄『Xへの手紙』より


6:
中原中也は、彼自身の「かなしさ」に取り殺された。
ランボオは彼の美神と刺し違えた。
彼らは、殺された。

小林秀雄は、殺したくないし、殺されたくないと言った。

「かなしさ」を見ることのできるものは、
「かなしさ」を悲しむことのできるものは、
その「かなしさ」に殺されることがない。
悲しむことで「かなしさ」は浄化されるからだ。

そうだ、小林秀雄は、ランボオを浄化し、中原中也を浄化し、
ドストエフスキイを浄化し、全て遭遇した人々を、祈りのうちに鎮魂した。
あるいは、そうしようとした。
その「かなしさ」ごとに。

――彼はまるで、僧侶のようだ。

詩人というこの世に紛れ込んだもの、「魔」を負うものどもを
絶え間ない全人格的な葛藤をもって迎え撃ち、
理解し、鎮め、そして言葉のうちに――過去とする。

彼はそのような遭遇をしていないとき、
そのような過程にないとき、
「自分はどういふ人間かと考えるのは全く意味をなさない事ではないのか」
と、自らに言う。

誰も彼を殺さなかった。
彼は「かなしさ」を知っていたけれど、
「かなしさ」となることはできなかった。
彼の文章は「かなしさ」を語って歌となったけれども、
「かなしさ」そのものは、彼のものになることはなかった。

誰も彼を殺さなかった。
だがその遭遇から遭遇への足取りの隙間に。その背後に。
そこに私は、おぼろげに、二重写しに、『本当の足取り』を見る。

犬のような死しか、自分にはないだろうと自嘲したひとの、
あまりにも「見る」ことにあけわたした肉体の、
絶え間ない遭遇と格闘だけが生きることだったひとの、
刺し違えるべき美神を持たなかったひとの、
そのかなしい足取りを見る。

だが、評論家を評論するのは馬鹿げたことだ。


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