終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年08月29日(水)

1:
「『俺は恋愛の裡にほんたうの意味の愛があるかといふような事は知らない。
 だが少なくともほんたうの意味の人と人の間の交渉はある。……(後略)』
                   (小林秀雄『Xへの手紙』より)
 ……(中略)……
 彼らはあらゆる修飾語を剥ぎ取られた一対の存在として、
 絶え間ない全人格的な葛藤を繰り返さなければならない。
 「人と人との間の交渉」はまぎれもなく成立し、彼らは確実に触れ合う。
 だが、それがどれほどの苦痛を代償とするか。
 ……(中略)……
 そこに限度などというものがありえないことが見えすぎている。
 束縛しあうところにしか「生きる」ことの様式はない。
 そこに「政治」を――喰うか喰われるかという運動だけを
 見れば話は簡単であろう」
                    江藤淳『小林秀雄』より


2:
先日、悪友A(注:女)が、彼氏と別れた。
ここのところずっと彼氏が忙しくて会えなかった上に、
誕生日を忘れられて「だめだな」と思ったらしい。

「どうしてもやりなおせないの?」 と聞いたら、
「向こうに頑張ろうって気が全然ないんだもの」という答えが返ってきた。
相手は社会人で忙しいらしく、こちらがずっと合わせてきた挙句のことだったから
もう我慢できない、となったらしい。

感情を吐き出しあうような間柄ではないし、
なにより私に話してもどーしようもない(※私は恋愛経験がない)ということから、
彼女がわっと泣き出すようなこともなく、愚痴など聞いていた。

と、相手に何を求めてきたかという話になった。(※やっぱり私は聞き役である)

包容力のある人 → 一緒にいて楽しい人 → 一緒に何かできる人

という具合に彼女が相手に求めるものは変ってきたらしい。
何か抽象的な『愛っぽいもの』を与えられるのを待つ女の子から、
具体的に目の前にいる『相手』に視線をしっかり向けられるようになり、
そして、自分の『人生』というものを共有できる伴侶を探す……。

その変遷(成長?)は聞いていて、恋愛門外漢の私にも確かに説得力はあった。
むろん、多少なり彼女が頭の中で作り上げた部分もあったろうが。
とはいえ、そんなこととは別に、私はどうもしっくりしない。


3:
高校の時分、悪友B(注:男)は、非常にモテた。
頭は悪くないし、歌舞伎俳優のようなピリッと整った顔をしていたので、当然だ。
ちなみにジャンケンが異様に強く、私は二十回ほど連続で負けたことがある。
いや、余談だが。
さて、こやつ、モテるくせに、彼女はいなかった。というのは。

「つきあってください」
と言われても、
「つきあうってどういうこと?」
と答えるからなのである。
たいていの女の子はそれで涙ぐんで逃げ出した。

当時はそれを聞いて腹を抱えて笑ったものだが、
それでも、ああ、なんとなくわかるな、とは思ってた。
友人なら、いい。友人なら、同じ時間を笑って過ごせばいい。
喧嘩をしてもいい。そうして学校がひけたら、じゃあねと言って帰ればいい。
面白そうな映画があったら、わいわいと見に行くのもいい。

しかし、つきあう? 恋人?
それはいったい、どういうことなんだろう?
悪友Bはおそらく、どんなふうな距離を取ればいいのか、
どんなふうに接すればいいのか、
さっぱりわからなかったに違いない。

だから――「つきあうってどういうこと?」と、聞いたのである。
つきあってほしいと言ってくるくらいなら、知ってるだろうと思って。
しかし………ねえ……気の毒だな、女の子たち……一大決心して
告白しただろうに……。
Bも、可愛い彼女、できてんだろーか、今ごろは……。


4:
「恋愛」については、ハナっから匙を投げている。
私は包容してほしいとも思わなければ、
一人でいても十分楽しめる人間だし、たいていのことは一人でもできる世の中だ。
友人で足りないような用事も今のところない。
従って、恋愛の需要がない。

問題は、「ほんたうの意味の人と人の間の交渉」だ。
自分がそうした「全人格的な触れ合い」を望んでいるのかどうか、
終には「束縛」の中の「喰うか喰われるか」というギリギリの線、
善悪と愛憎の区別がつかなくなる線にまで運ばれるような、
そんな、もの、を、望んでいるのかどうか。

わからない。

ただ、時に。
ひどく物狂おしくなることがある。
食い破られるような孤独感、寂寥感。
それはいつも、この手を伸ばしても触れるものがない、と、私に言う。
子供のようなその渇望の言葉を、なだめる術を私は知らない。


――『本当の手』をおくれ。


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