- 2001年08月25日(土) ギリシア悲劇に、『オイディプス王』、という作品がある。 作者はソフォクレス、未だ悲劇の最高峰を守って譲らないこの作品は、 今から二千年以上も前に書かれた。 何度も読んだ。何度も、何度も、何度も、何度も。 文字の羅列となってさえ、言葉の全てが、歌う。 歌の全てが緻密に重なり合い、一つの壮麗な全体となる。 見る者は、陶酔して、踊ることもなお許されず、呆然と立ち尽くすよりない。 身動ぎすらできない。息さえつけない。涙は流れることを許されない。 そうするには、あまりに激烈な、足の速い、歌だから。 でも、そう。 何か、妙だ、と、最初に読んだときから思ってた。 何か、妙。何か、読みきれない。何か、隠れてる。 何度その走り去る足を捕えようとしただろう。 その正体がわかったような気がする。 かくも壮麗な歌の全ては、予感にすぎない。暗示にすぎない。 外側を緻密に辿るより他に内容を教えることのできないものを歌った歌なのだ。 器の形を、色彩を、その微細な凹凸に至るまで、ソフォクレスは歌う。 うかとすればそれをこそ歌おうとしていると信じてしまうほど克明に。 けれど――主題は器の内容なのだ。 それは、あるいは神々の飲み物、ありえざる炎。 ソフォクレスの天才をもってして、器をなぞるしかなかった、透明な。 走り過ぎる影と触れる風をもってしか、その存在を教えることのできない。 理知的な論議を舞台の上でオイディプスが、イオカステーが重ねる。 滅亡へと言葉と追求を積み重ねてゆく。あまりにも聡明に。 それこそ語られていることであるというよう、精緻に。弁証法的に。 だが観客は、そこに起っていることが『本当の舞台』の幕間に過ぎないことを 漠然と感じる。『本当の舞台』でこそ劇が進行していることを感じる。 合唱隊が歌う。神への感謝や、運命の悲惨や、人間の弱さを。 ひどく教訓的に。あたかも幕間に過ぎぬかのように。 だが観客は、その歌が『本当の舞台』の反響だということを、 『本当の舞台』の裏側を透かし見せていることを漠然と感じる。 『本当の舞台』が、裏返すことのできない舞台の板の裏側で着々と進行し、 わずかに溢れ出した余波が合唱隊の歌なのだと感じる。 ひとの言葉では、表現することのできない魔がある。 ただ暗示し、予感させることしかできない魔が。 ソフォクレスの天才は、その魔界の輪郭を歌い上げて―― そして、魔のありかを示そうとした。 『オイディプス王』が、全ての演劇に冠たるギリシア悲劇の中で 更にティラン(王)と呼ばれる理由はここにある。 -
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