終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年08月26日(日)

「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、
 私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも
 言っている声のようだった。

 しかし、今もなお、それから逃れているとは思はない。
 それは、以後、私の書いたものの、 少なくとも努力して書いた凡てのものの、
 私があらわには扱う力のなかった真のテーマと言ってもよい。」
                  小林秀雄『感想』より

彼の「モオツァルト」「ゴッホ」、全て。
一つの悲しみを語っている。伝達不可能、表現不可能の悲しみを。
歌うしかない悲しみを。そのような一つの魂――中原中也。
「あの経験」を共にした、中原中也の影は絶えず見え隠れする。

彼の魂は、中原中也の中に見出した悲しみに魅入られてしまったようだ。
そこから目を離すことができずに、中也の悲しみを今度は彼自身が
歌い継がねばならないようだ。中也が失われることがないように。

「私の一生という私の経験の総和」は、「何に対して過ぎ去る」のか。
誰が中也の、そして中也ともはや分かち難くさえある自分の、
伝達不可能な悲しみ、表現不可能な悲しみを受け取りえるのか。
確かにここにあったはずのものが、かつてあったこともなかったように、
掌から零れ落ちてゆく悲しみを、彼は静かに感じていたに違いないのだ。
涙にすることもできずに、魅入られたよう。

「秋の夜は、はるかの彼方に、
 小石ばかりの、河原があって、
 それに陽は、さらさらと
 さらさらと射しているのでありました」
            中原中也「一つのメルヘン」より

寂しい魂。


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