- 2001年08月05日(日) 金曜日の項に書いた親友と、音楽について話したことがある。 もっとも、私も彼女もそう高尚な趣味は持っていない。 ヒッキーだ倉木だ浜崎だ中嶋みゆきだ石川さゆり(?)だ、と たわいもなく流行歌手の名前を挙げていた。 さて、ここでまた面白いことになった。 どんな基準でいい歌かどうか選ぶのか、という話が出たのだ。 私は、六七時間聞きっぱなしでも、引っかかってこない歌がいい、と、答えた。 耳についてうるさいのは、だめだ、というわけである。 彼女は、何度聞いても頭に入ってこない歌はだめだ、と、答えた。 気がつけば聞き入っているような歌でなければいい歌でない、というのである。 お互いに、反対のことを言っているように聞こえる。 しかし、少し考えたらわかるだろう。 私は音楽を単に聞き、友人は音楽を聴こうとして聴くのだ。 私の音楽は常に私の焦点から少し外れた場所にある。 音楽は私の焦点に侵入してはならない。思考と行動の足を止めてはならない。 私がいい歌というのは、注意を要求しない、袖を引かない歌だ。 彼女は音楽を聴くとき、音楽を焦点に置く。 彼女は音楽に耳を傾け、全神経を注いでそこから言葉と音を拾う。 拾うべき言葉も音もない歌を、彼女はいい歌と呼ばない。 彼女は、純粋な目と耳を持つ。 彼女の目は、美しさを求め、美しさを見出し、美しさに耐える。逃げない。 彼女の耳は、音楽の語りかけてくるところに耳を澄ます。逃げない。 彼女の内部で、絵は音楽は、その本来を顕しているのだろう。 聴くことと見ることに忙しく、彼女は無口だ。 私といれば、彼女は、私にも耳を傾ける。確かに私を見る。逃げない。 逃げるのはむしろ私の方だ。私は彼女の前では、たいてい落ち着かない。 私が、自分の言葉で、衒いもなく照れもなく嘘もなく 彼女の前で語れるようになるのは、いったいいつだろう。 そうして、彼女が自分の目と耳に合うほどの絵の技量を手に入れ、 その絵が美しく豊かに彼女自身の内に受け止め育んだものを顕す、 それはいったいいつだろう。 もう七年越しの親友なのだが。 -
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