終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年08月01日(水)

最近の暑さにだれている。
と言うと聞こえはいいが、実際のところは、
日々うだうだと怠けているだけのことである。


小学生の頃、中学生の頃、高校生になって。
私はいつも「やらなくてはいけないこと」というものがあると思っていた。
勉強を、運動を、クラブ活動を、「やらなくてはいけない」と思っていた。
といって、それを全部やっていたわけではない。
そこそここなしていた程度である。
しかし、そうしたことを、本当なら「やらなくてはいけない」
と思っていたことに変りはない。

小学生、中学生、高校生、大学生になっても。
うちの父親は、単身赴任の多い人だった。
家に帰ってきても、母とよく喧嘩をしていた。
頑固で、人の言うことを聞かない上、自分が間違っていても押し通した。
口よりも先に手の出るひとで、よく殴られた。
「どうしようもない」人だと、母はよく私に言った。
私もそう思っていた。


勉強、運動、クラブ活動は、本当に「やらなくてはいけない」ことだったろうか?
父は本当に、「どうしようもない」人だったろうか?
今はそう思わない。

学校の勉強を隅から隅まで「きちん」とやって、(学年で十番以内?)
運動はなんでも「きちん」とできて、(体育の授業ではいつも頼りにされる?)
クラブ活動も「きちん」と実行できる。(部長や副部長として皆を引っ張って?)
そんな小学生や中学生、高校生はいない。
どれかしかできない子もあれば、どれもできない子もある。
それ以外のところに生きてゆく子もある。
それでいい。

家庭よりも仕事に人生の重点を置くことを選んだ父が
疲れて家に帰ってきて、懐かない子供を相手に、
「きちん」と接し(愛想よく、怒らず、我慢強く?)
ここぞと日常の不満をぶつけてくる母を相手に、
「きちん」と接する(愛情に満ちて、共感深く?)
ことはまあ、不可能である。
父は父の選んだ人生を見つめている。
父は父の道をゆく。
それでいい。(子供を殴るのは考え物だが)


思い込みの枠を外すと、生きることが随分楽になった。
他人に十全を期待することもなく、
自分に十全の重石をかけることもない。

私は私の足で歩く。
私の「やりたいこと」が私の「すること」だ。
それとて、「しなければならない」という呪縛ではない。
他人に褒められれば、嬉しくないわけではないけれど、
それは私とは、ちっとも関係ない。
私は私のテンポで歩こう。

夏は、だれるか。
……と言ってもいられない。
「やりたいこと」が私をせきたてる。


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