終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年07月31日(火)

「人間は何と人間らしからぬ沢山の望みを抱き、
 とどのつまりは何とただの人間で止まることでしょうか」
             小林秀雄『私の人生観』より

この言葉の悲哀を、感じられないひとがいるだろうか。
このような言葉を紡いだひとの、深い実感を感じることは容易でないとしても。
最初の一行は、私たちに多くが許され、豊かなものが許されていると語り、
最後の一行は、私たちが最後まで一つの箱の中に住んでいるということを語る。


昨日書いた、『死者の叫び』について。
昨日は遠藤周作と「魔」に焦点をあてていた。
『死者の叫び』そのものに言葉を費やしたい。

死者の叫びは、聞くもののない叫びである。
救われることによって止むこともない、
一度発せられれば密室の中に永遠に反響し続ける絶望的な叫びである。

生きているものがいかに裁判し、犯罪者を刑にかけ、
正義を明言し、二度と起こさぬことを誓っても。
この叫びは止むことがない。償われることがない。
償われるものたちは既に過去となり、受けるべき手を持たないからだ。
償いは徒に投げ出されるだろう。叫びが徒に投げ出されているように。
そうとも、天国すら生者のためにある。


だが一体、何が、受けるべき手をもっているというのだろう。
中原中也の悲しみを受け取るものはいなかっただろう。
彼の告白は、美しい詩となっては読者の耳を喜ばせ、
酒席の雑談となっては聞くものにまたかと言わせるばかりだったろう。
そうして彼の悲しみを真に理解した小林秀雄は何一つ言えなかったに違いない。
遠藤周作の「魔」もまた、受けるべき手、出るべき出口を持たなかった。
彼はその「魔」を、その重荷を、墓場まで運ぶしかなかった。

そういうものが、あるのだ。
けっして救われることのない叫びというものは、あるのだ。
それでも止まないものが。


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